"Disability, Capability, and Thresholds for Distributive Justice"

David Wasserman 2005 "Disability, Capability, and Thresholds for Distributive Justice," in Kaufman, Alexander eds., 2005 Capabilities Equality: Basic Issues and Problems,Routledge

第10章  Disability, Capability, and Thresholds for Distributive Justice

導入

 この30年間、障害者は正義論に対する批判の中心に位置づけられつつある。最も引用される障害者が、小説の登場人物で多幸症の「タイニー・ティム」の事例だけでなくなり、実在の人物であるセーシャ・キテイがいる――その母親であるエヴァ・キテイのロールズ批判の中で論じられている。
 以下では、障害者の分配的正義への統合のプロセスと、現存する分配的正義批判を評価する。とくに二つの議論に焦点をあてる。アンダーソンの「民主主義的平等」と、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチである。両者は過去の議論が障害者を適切に扱ってこなかったという批判を行っている。これらは福利の概念を「薄く」とるか「厚く」とるかの違いはあるが、いずれも、多くの平等主義理論に比べて分配的正義の目標を慎ましい形で提唱している。(215)

分配的正義と障害――不幸な出発点

障害者は分配的正義の問題になってこなかった。アメリカでは1974年法と1990年ADAにより、現実社会のなかでは、障害者の不利益の社会的構成への認識が深まってきた。しかしロールズの契約論の枠組みを使った議論では、原初状態の人々に障害者は含まれていない。また、「直接的」な分配的正義論でも、インペアメントは契約論と同様、自然の不運の問題として扱われることが多かった。これまでの議論では、ほとんどの場合、社会編成の問題が正面から扱われることは少なかった。(215-218)

批判と応答――分配的正義は障害に配慮できるか?

 これに対して近年、障害者運動と障害学はロールズ流の議論で自然の不運とみなされ続けていることを批判した。さらに、インペアメントをもつ人々に対する正義問題を分配タームで扱うことは、彼らを劣っていて無力な者として位置づけることになる、と結論づける哲学者もいる。彼らは、人々の「自然」の不利益の補償を目指すことにおいて、分配的正義は不可避的に不利益を受けているとみなされる人々を侮辱することになる、と論ずる。「自然」の不利益が差別的な社会編成に源泉をもつことを看過する、という批判とも重なっている。
 とはいえこの10年で、「障害を真剣に受け止める(taking disability seriously)政治哲学が登場し展開されつつある。障害の相互作用モデルとその分配的含意を認識しつつある哲学者もいる。
 分配的アプローチを支持する論者は、分配的正義の理論の内部で、障害の社会的原因と相互作用的性格を認識することができるという立場を保持している。(218)  アンダーソンは、「醜く気難しい人」のケースについて、社会の再構成よりも貨幣による施し(cash handouts)を好むような平等主義を批判している。これは、制度的限定とバイアスを反映しているのであって、平等主義的な打開案ではない。
 たしかに、ドゥオーキンのような説明では、諸個人の資源の束へと資源を仮設的に分割する方法が提示される際、社会環境は当然視される傾向にある。インペアメントをもつ人々に対して、人々が障害保険として仮設的に購入した保険収益からの支払いは、インペアメントをもつ人々のスティグマ化を助長する。環境の再構成よりも追加的所得を要求することで、資源平等の図式は、障害をもつ人々の劣った地位を強化するだろうし、障害者を、物理的・社会的環境のデザインによってではなく、自然の賦与における不足によって不利益を受ける個人とみなすことになるだろう。
 資源平等論は批判対象になってきたし、多くの政治哲学者が政治的正義の「通貨currency」が資源と主観的厚生の間に置かれるべきだ、と論じてきた。(219) こうした「ミッドフェア」アプローチは個人のもとにあるもので、その人に何ができるかを評価することを目指す。その最も影響力のある見解がケイパビリティ・アプローチである。
 ケイパビリティ・アプローチは分配的正義の指標と同時に、福利の理論を基礎づけている。人々が何をもつかあるいは、人々が何を感じるかではなく、人々が持っているモノで何ができるかを強調する。センは厚生の平等論に代えてケイパビリティ・アプローチを提示する文脈で、多幸症のタイニーティムの寓話を出し、主観的厚生は平等の指標(metric)として不適切でありまた福利の概念としても不適切だと指摘する。
 ケイパビリティ・アプローチは、社会的な要素を視野に入れているため、インペアメントについても、よりinformedな扱いができる。
 ヌスバウムはインペアメントをもつ人々にとっての平等を考慮に入れるために、二つの重要な方法でコア・ケイパビリティを改変した。(ⅰ)コア・ケイパビリティを、人々が獲得でき実行できるようなより広い範囲に適合させるように「個性化(individuation)」を拡大すること。(ⅱ)正義要求を平等の達成ではなく、全ての人間に達成できるミニマムレベルのケイパビリティの達成に留め、正義と福利の評価においてケイパビリティ間のトレードオフを否定すること。(220)
 以下では、「厚い分配的正義」の章で、これらのヌスバウムの議論について、第一の改変は評価できるが、第二の改変は評価できないことを明らかにする。個人間のトレードオフおよびケイパビリティ間のトレードオフなしでは、ミニマムは達成できないだろう。それはアーネソンによるヌスバウム批判――「充足主義」――とも共通する。
 ヌスバウムのアプローチは、分配的正義を簡略化しかつその道徳的重要性を維持するための政治的平等の説明の「敷居(threshold)」をめぐる議論文脈に位置づけることができるだろう。この文脈を前提として、ヌスバウムの議論を、エイミー・ガットマンによ手導入され、エリザベス・アンダーソンによって展開されている民主主義的平等論と対比していこう。ガットマンとアンダーソンは分配的正義の射程を、政治的参加と社会的平等についての「薄い」指標へと限定しようとしている。他方ヌスバウムはそれをより「厚い」包括的な福利の説明へと拡大しようとしている。こうした違いがあるとはいえ、両者は四つのポイントを共有している。①過去の正義の理論による障害に対する対応の不適切さによって動機づけられている。②両者は、この誤りを、より広く分配的正義の目標についての誤解を反映しているモノとして見ている。③正義の重要な要請を、政治社会のすべてないし大多数のメンバーがある水準(threshold)のケイパビリティを達成することと見なしている。④彼らの見解に対する決定的な批判として認知的インペアメントをもつ子どもに対する教育の事例を取り上げている。以下では、いずれの立場も、その簡略化という目的を他生することができないしトレードオフを避けることもできていないが、いずれも現代の分配的正義利をめぐる論争に実質的に貢献しており、したがって障害研究を政治哲学に統合することに貢献していると論じたい。

薄い分配的正義――分配に対する敷居としての社会的ないし民主主義的平等

正義についての「関係的」説明を主張する論者、たとえばアイリス・ヤングは、分配的正義は不正義を温存すると批判している。それによれば、社会集団間の格差は差別や抑圧、搾取の証拠であって、独立した重要性をもたない。(221-2)正義の理論の標的はこれらの不正な社会的関係性に向けられるべきだとされる。
 障害の文脈で言えば、分配理論は、機能制限としてのインペアメントを強調し過ぎており、スティグマを過小評価している。インペアメントが正義の問題になるのは、それが機能にもたらす影響だけでなく、スティグマや抑圧や従属に問題があるからである。資源のシェアの仕方への変化は、これらのより根本的な変化の副産物になる。
 こうした反差別アプローチはADAにも不十分とはいえ共有されている。だが、これらの反差別論は十分ではない。
 まず、これらの批判に分配的正義論は、そうした曖昧なキテイを採用せずに対応できることを示すことができる。これらの議論は、包括的な分配的正義というより大きな目的を否定し、より穏当な目的としての大まかな社会的政治的平等の達成を好む。
 近年、デイヴィッド・ミラーやリチャード・ノーマンらは、結果の分配に対して制約を課す議論を展開している。(222)
 これらの論点、つまり異なる文脈では異なる福利の概念が適切になる、という論点は、ノーマンによって強力に主張されている。それによれば、平等主義は制約を課さない限り、個々人の性格の平等をも追求することになるが、それはカリカチュアだ、とされる。
 それに対して、より穏当かつ適切な平等主義は、正義にとって重要性をもつもとして福利におけける格差を取り扱うとして、その格差が地位と参加に関する基本的な社会的・政治的役割における平等を侵食するときだけだとされる。この立場は、包括的な平等主義理論を避ける。正義は平等を最大化することも不平等を最小化することも要求しない。そうではなく、ある種の「充足」、つまり社会成員をある種の社会的平等ないし政治的参加のレベルに引き上げることを要求するだけだ、とされる。
 こうした民主主義的な敷居はエイミー・ガットマンによって、教育資源の分配の原理として提示された。ガットマンは「平等の民主主義的真理とは、すべての子どもは民主主義的プロセス――それにより個々人の選択が社会的に構成される――に効果的に参加するに十分な程度、学習すべきだ」と述べる。これは関係的考慮と分配的考慮を統合する。教育における正義の対象は(223)、不正な関係性を阻止することであり、それは福利のすべての側面に関係するのではなく、より狭く、政治的参加ないし政治的意思決定に必要なスキルに関係している。
 ガットマンは自分の原理では二つの問題が生ずると書いている。この原理からすれば、第一に、仮に資源に制約がないとしても、すべての子どもが参加の能力を獲得できるわけではない、という問題。第二に、ある子どもがこのレベルに至らせることができる資源分配が、より能力のある子に対する教育資源を累積的に少なくするという問題である。ガットマンは、脳障害をもつ子は「我々の許容範囲の制約まで教育されるべきだ」という見方を斥け、教育サービスと非教育サービスのミックスが提供されるとする。それとは対照的に、彼女は、民主主義的原理によれば、社会的に不利な子供の教育を改善すべきかどうかの決定について、人々には裁量はないと述べる。なぜなら社会はこの敷居を達成するために、教育資源の再分配ではなく拡大という選択肢をもっており、この原理の充足はより有利な学生に対する教育の「レベリングダウン」を要求しないからである。
 このガットマンによる脳障害をもつ子と社会的に不利な子との対比は、民主主義的平等の敷居に到達することができる能力をもつか否か、という基準に基づいている。この敷居は伸縮性のある基準とされている。だが、伸縮性があるということは逆に、その基準に達成できないとして、それが、我々の能力を超えているからなのか、単に我々が支払いたくないからだけであるのかを知ることができないということにもなる。ガットマンは、この民主主義的敷居は現在よりも質量ともに良い教育を要求するはずだと言うが、しかしそれは確かではないだろう。(224)
 第二の問題は、この敷居が柔軟であるのは、特定領域に限定されているからだというところにある。たとえば教育以外の領域に多くの資源を費やすべきだということになれば、教育にはあまり資源をかけることができなくなるだろう。社会生活と政治的生活への参加は教育だけではなくより多くの活動や能力が含まれているからである。
 こうしたより全般的な敷居は、エリザベス・アンダーソンの「民主主義的平等」によって提示されている。アンダーソンも他の哲学者と同様、包括的平等を社会的ないし政治的な命法にすることを拒否し、不正義を福利における正当化されない格差問題とは区別する。彼女は社会的・政治的不正義の核心を、差別の核心にある悪と同一視する。
 アンダーソンは、人間のヒエラルキーによる排除は、社会成員間のある種の平等を必要とすることを認識しており、また、この平等についてケイパビリティ・アプローチを引いて、活動と参加に焦点化して積極的な説明を与えている。「だが、彼女は正しい社会が追求すべきであるような平等にとって重要なケイパビリティは、せいぜい小さなものだと考えている。」

「消極的には、人々は抑圧的な社会関係に巻き込まれないようにするのに必要なケイパビリティに対する権限を与えられている。積極的に言えば、人々には、民主主義社会において平等な市民として活動する(functioning)のに必要なケイパビリティへの権限がある。」(Anderson, 1999: 317) (225)

これらの目的にとって必要だとアンダーソンが考えるケイパビリティセットは広範ものになる。しかし、

「平等な市民として活動することができる(to be capable)ことが含むのは、とくに政治的権利の実質的な(effective)行使能力だけではなく、より広く市民社会の様々な活動への参加のための能力である。人間として活動することができるということは、その人の生物学的存在を維持する手段――食べ物、衣服、医療ケア――と行為者にとっての基本的条件――当人の状況と選択肢についての知識および手段と目的について考慮する能力――に実質的にアクセスできることを必要とする」(Anderson、317-8)

これは非常に高い要求に見えるが、アンダーソンは、人々が価値をおく多くの事柄、たとえば快楽やロマン的な達成、知的刺激などにおける平等は不要だと強調している。このように正義の射程を限定することで、彼女はより包括的な理論が提示する〔とされる〕侮辱的な方策を避ける。正義は、不幸や非効率(無能)を補償するのではなく、彼らの完全な市民としての地位を保証するだけである、と。だが、これは安く済む正義になるだろう。
 アンダーソンは民主主義的平等の敷居が達成可能だと述べるが、より厳密で包括的な平等は不要だと主張する。これらの議論は問題が大きいだろう。アンダーソンの議論は無限の資源支出を要求するように見えるが、彼女はある種のケイパビリティを民主主義的平等の外部に位置づけており、その要求は薄められている。
 たとえば「医療ケアに対する実質的なアクセス」は、「実質的」という語の解釈次第では、進行性の慢性疾患をもつ人々に対する無際限の支払いを要求するだろう。だが、このような解釈は民主主義的平等の目的に取ってほとんど役に立たないだろう。
 同じことが「行為者にとっての基本的条件へのアクセス」についても言える。ガットマンの提案について論じたように(226)、我々はそうした能力を欠いている認知的インペアメントをもつ人々に無際限に教育、職業訓練等々を費やすことができる。だがそれには多大なコストがかかるだろう。たしかに認知障害は明らかに社会的に構築されているのだが、社会の複雑性を縮減することは甚大な社会的コストがかかる。「人間として活動すること」についてのケイパビリティにとって、普遍的に達成可能な敷居は存在せず、他のケイパビリティの強化と競合するような遠い目標が存在するだけなのである。
 アンダーソンが「十分な」レベルの達成に付きまとう困難を過小評価していたとして、彼女はまた、民主主義的平等の射程からは、広範なケイパビリティが排除されることを認識するのにも失敗している。アンダーソンは民主主義的平等が無視できるようなモノとして、瑣末な事例しか提示していない。だが、コーエンによるセンのケイパビリティ・アプローチ批判を拡張して言えば、確かにインペアされた個人は「人間として、協働の生産システムへの参加者として、そして、民主主義的国家の市民として」十分に活動できるだろうが、他方で、友人や恋人や家族を失った状態で、美的ないし知的刺激を欠いた状態になるだろう。
 これらは敷居アプローチ(threshold approach)の支持者からすれば、正義に関わる問題だということになるだろう。もし、これらを無視するならば、民主主義的敷居アプローチの魅力は失われるだろう。
 あるいは民主主義的平等への焦点化は、福利の大まかな近似を提示しているだけかもしれない。とはいえ、あまりにラフすぎる。〔とすれば〕我々はより包括的な福利の尺度を採用すべきなのかもしれないし(227)、国家がその市民に対して「平等な配慮と尊重」を示すための対価として、我々の私的な生活に対して大きな介入を認めるべきなのかもしれない。

厚い分配的正義――ケイパビリティという敷居

ヌスバウムは包括性を強く解釈する。適切な敷居まで人々のケイパビリティを高める条件をつくるべきだとする。もちろん彼女は、その敷居が社会によって異なることを認識している。他方で、一つの社会「内」においては障害者に対して、他の人々とは異なるケイパビリティ・リストを適用することは否定される。
 ヌスバウムはまた、各人が人生計画を形成し、意味のある選択を行う生活に対するパターナリズムと政府の介入を認める用意があるとする。また、ある種のインペアメントをもつ人々が、いくつかの機能についてミニマムレベルを達成できないことも認めている。
 ヌスバウムの議論は障害研究に対する応答の中で発展させられている。ヌスバウムはかつてのリストの定式化の改変を認めている。
 ヌスバウムによるケイパビリティはより一般的なものにされ、「五感を発揮すること」は人間性の要件から除外されて、特定のインペアメントを排除することはなくなっている。(228)とはいえ、すべての社会が、すべてのインペアメントをもつ人々に対して、少なくとも中心的なケイパビリティでされミニマムレベルに到達させることができるわけでもない。最も深刻な認知的インペアメントをもつ人々は、どれほど集中的なサポートを得たとしても自らの善き生の構想をもつことはできないことをヌスバウムは認めている。それを正義の射程を超えた「悲劇」だとしている。
 私はこのヌスバウムによる福利の厚い概念に対する果敢なコミットメントと、正義の射程に関する堂々とした包括性に大きなシンパシーを持っている。また彼女の概念の柔軟性はその弱点ではなく利点だと思う。とはいえ私は、彼女のケイパビリティと正義に関する立場は、トレードオフ問題を解決するのではなく、むしろずらしていると思う。
 ヌスバウムは異なるケイパビリティ間のトレードオフを、それぞれがあるレベルに達しているならば、認めるだろう。だが、トレードオフを避けることはできていない。第一に、アーネソンが述べるように、彼女の敷居をどのように設定するかが明確ではない。ある社会内でそうした敷居を設定することは、暗黙のうちに異なるケイパビリティ間の重み付けを含意する。自尊の社会的基礎や身体的統合性の保護に対するアグレッシブな介入を行う社会で設定される敷居は、その市民の政治的・社会的環境に対するコントロールの範囲を狭めるだろう。
 第二に、別種のトレードオフがある。ある個人を所与のレベルに引き上げることと、そのレベル以下にある別の人に実質的な利益を与えることとの間での選択問題である。(229)
 ヌスバウムはこのトレードオフを否定するだろう。だがこれを避けることはできないだろう。
 先の認知的インペアメントをもつ人の事例を考えよう。どの程度の介入が可能なのかを我々は知らない。未来のある時点からみれば、我々のそうしたインペアメントをもつ人々への見方は極めて悲観的に見えるかもしれない。あるいはある種のインペアメントは手に負えないということが証明されるかもしれない。こうした不確定性を前提にしてどうすべきか。ある敷居を超えるまでケイパビリティを高めることに辞書的優先性を与えるか、あるいはトレードオフに嫌々ながら従うか。いずれもヌスバウムにとっては問題含みだろう。前者は皮肉なことにヌスバウムが批判するノーマン・ダニエルズの提案に似ている。ダニエルズは、種に典型的な機能の回復に、他の分配的目標全てを超える優先性を与えている。この絶対的優先性は、しかし正当化され得ないだろう。この敷居のわずか下にある人々を高めることができる限り、それよりも少し上の人々への支援を否定することは不正に思える。
 第二の選択肢はより説得的に見えるが、ヌスバウムはケイパビリティ間のトレードオフも、個人間のケイパビリティのトレードオフも拒否するだろう。(230)
 ヌスバウムは、トレードオフについてIDEAとインクルーシブ教育の評価の文脈で誤魔化している。Rowley事案の読解のなかでヌスバウムは、全ての子どもたちに対する「自由かつ適切な教育」の法令が、学習障害をもつ子どもたちへの「ある種の教育的利益」しか要求しない、ということに言及していない。これは敗訴した側の「最大限の教育的利益」の要求に比べて穏当な基準である。さらに、学校教育システムはこの基準によってさえも破綻するという批判もある。平均的な子供たちは、少数の学習障害の子どもにわずかな利益を与えるための特別教育支援プログラムに高いコストを支払って、学問の機会を喪失させられているのだ、と。こうした反論はたしかに過剰反応ではあるが、重要な問題はトレードオフが存在しているということである。
 ヌスバウムはIDEAとその実施は「不十分だ」と結論づけているが、完全な実施についての基準を示唆さえしていない。「最大限の利益」なのか「ある種の利益」なのか、あるいは多様な能力をもつ子どもたちに対する学術的利益は比較不可能だとするのだろうか。IDEAの法令が提起する論争は、あらゆるケイパビリティのミニマムレベルに人々を到達させることを目指すいかなる社会にも当てはまることである。この目標をトレードオフから切り離すための理に適った方法を、私は見出すことはできない。(231)
 ヌスバウムはケイパビリティ間、およびケイパビリティ内のトレードオフによって問題解決の方法を見出すことはできる。だがそれは彼女の要求を満足させることは困難になるだろう。ヌスバウムの試みも、単純化すれば、アンダーソンの試みと同じく成功しているとは言えない。

結論

 包括的分配的正義に対する私自身のシンパシーは、集合的関心の問題になるべき福利の諸側面を、そうならない者から切り離すことの困難性についての核心からきている。またそのシンパシーは部分的に、いまやアメリカでは包括的な分配的正義が危機に陥っているという懸念からも来ている。アメリカが再分配という目標に対してより慎重になっており、「リベラル」は政治的軽蔑の用語になりつつある。
 とはいえ、包括的分配的正義への新たな期待が生じてもいる。それは遺伝子介入による改変である。いわゆる「厭わしい結論」を伴いつつも、この技術は分配的正義に鋭いジレンマを提起するだろう。「内的資源」そのものが分配の対象になることで、正義はより包括的なものになるか、あるいは福利の多くの側面における格差の拡大に寛大になるかのいずれかにならざるを得ない。この技術は分配的正義の射程を制約する基準に対して強い圧力をかけるだろうし、医学的インペアメントと単なる欠陥との区別を瑣末化するだろう。これらの帰趨を歓迎しつつ、慎重に見守っていく必要があるだろう。