"Philosophical Issues in the Definition and Social Response to Disability"

"Philosophical Issues in the Definition and Social Response to Disability" David Wasserman in Handbook of Disability Studies Albrecht, Gary L., Seelman, Katherine D., Bury, Michael eds. 2001 Sage

 特に後半の紹介。※「」内のみ訳。


概観――哲学は障害者政策にどの程度の重要性を持つのか? [略]

ある身体的ないし精神的条件をインペアメントと分類することには、どんな意味があるのか? [略]

インペアメントが個人的制約と社会的制約の原因あるいは一つの原因である、という主張は何を意味しているのか?

 インペアメントを制約の原因とみなす立場が従来支配的だった。それに対して社会モデルは、障害者に対する制約は社会的障壁が原因なのだ、という主張なのだろうか。
 たしかに、インペアメントを原因とみなす立場は科学的な根拠に基づいているわけではない。というか、何かを何かの原因とみなすことは一般的にプラグマティックな判断であり、主観的であると言える。
 たとえば、普通の足の動きができる人も吸盤をもたないからコンクリートの壁を登れないということもできる。だが、吸盤がないことをコンクリート壁に登れないことの原因とみなすとして、そこに排他的な因果性を帰属するための科学的ないし自然的な基礎が存在するわけではない。
 他方、環境に因果的説明をする場合にも同じことが言える。たとえば、重力という環境は、階段を車椅子で登ろうとする人に対して、壁を足でよじ登ろうとする人と同じように制約をかける。しかし重力が制約的環境だとは誰も言わない。とこが、重力を原因から除外するのも、科学的ではなくプラグマティックな説明である。では、何が問題になっているのか。論争は、それぞれの要素がどのくらい(how much)結果に貢献しているかについての直観の間にあるコンフリクトを反映しているのか。たしかに、一般に普通の足をもたないことが階段を登れないことの原因とみなされている。だがこの直観はより正確にすることは極めて難しい。
 とはいえ、生物学的要素を重視する立場も、社会的要素を重視する立場も、つねに何らかの要素が支配的だという判断が下されている。主流の政治哲学者にとってベースラインは「自然状態」であり、自然状態において生ずる制約は、自然ないし生物学的要素によって引き起こされたものとされる。他方、第二のベースラインを支持する立場は、社会的要素によって制約が生じると言う。
 いずれのベースラインを選択するとしても、明らかに価値負荷的である。第一の自然状態ベースラインを採用すると、社会の組織化は、自己利益をもつ人々がそのデフォルト・ポジションで取引交渉ないし熟慮して契約したものとされる。社会の義務は、その成員の状態を自然状態よりも悪化させないことだ、とされる。(226)
 社会的協同の図式なしに人がどうやって生きていくかを評価することは不可能でないまでも困難である。人間は社会的動物であり、人々が生きている状態はきわめて不自然な環境である。インペアメントをもつ人々は、異なった社会編成の下では非常に異なった生活をするだろうし、何を「自然状態」とみなすかの明白な基礎は存在しない。
 これは人々が経験する不利益の多くが、社会が生み出す利益の枠組みの中で理解されるべきだということになる。彼らがこのフレームワークの外で経験する不利益はどんなものかを問題にすることは意味をなさないだろう。
 この困難は自然の不利益と社会的不利益を区別して、正義の理論によって社会は後者により強い義務があるということを説明しようとするトマス・ポッゲ(1989)の試みにも当てはまる。(227)
 こうした原因帰属にとって自然状態をベースラインにすることに対する代替案は、「最大限に現実化可能な適応」の状態だろう。この状態は、インペアメントをもつ人々のニーズと目標に環境を適合させるためにできる限りの技術的な手段を投入し、その利益を享受することを可能にするだろう。このベースラインはこれまで明確に分節化されてこなかったが、障害者権利運動の主張によって含意されている。道徳的にどちらのベースラインがより適切かは問題ではない。無限のニーズと資源制約のある世界では、いずれにしても曖昧であるかあるいは未規定である。技術的可能性の限界を評価することはきわめて困難だからである。
 しかし、排除的な社会が原因だという主張は、額面どおり受け取るべきかどうかは明らかではない。
 Amundsonは次のように述べている。(228)

「因果性は複雑な事象だ。我々は、ある先行する出来事ないし条件を取り上げ、ある事象の「原因」とする。異なる見方は、異なる出来事を「原因」とする見解を導くことができる。障害の社会モデルは決して、生物学的条件を個人の不利益の「原因」とはみなさない。原因はつねに環境と社会的文脈の中に見出される。批判者は、このアプローチが政治的動機に基づくものであり、したがって科学的客観的なものではないとして却下するだろう。だが、もう一つの道について考えてみよう。哲学者と医者は、障害者の不利益は彼ら自身の異常性から帰結すると結論付けるために、生物学的な正常性のカテゴリーを用いてきた。不利益はそれだけの(自然の)せいであると。この評価は科学的に客観的だろうか?」(29)

この問いへの答えは、もちろん、いずれの評価も科学的に客観的ではない、というものである。障害の「原因」が生物学的なものか社会的なものかという間違った二者択一を退ける方がよい。そして、因果性と責任のリンクを解除した方がよいだろう。
 たとえインペアメントに伴う不利益を自然の原因に帰属させるような何らかの根拠をもつとして、しかしそのことは、その個人はそれを負うべきであり、その軽減は社会の責任ではないということにはならない。それが自発的に選択されたものでない限り、その源泉云々は分配的正義の説明にとって直接的な重要性をもたない。問題は、これらの不利益の軽減が他者に課すコストであり、軽減のある種の形態に付きまとう押しつけがましさや侮辱である。(229)

インペアメントの何が悪いのか? インペアメントは福利を削減するのか?

 [229-234は略]

 「おそらく我々はインペアメントが福利にどのように影響を与えるのかという問いに対する一般的な解答を必要としないだろう。」(234)

 問題は、政治的義務の源泉になるような福利の諸側面である。次節では、インペアメントが我々が正義の問題として互いに負っているものに影響を与える程度についての問題に焦点化しよう。(234)

インペアメントは社会的・政治的正義にいかなる重要性をもつのか?

 福利をインペアメントが削減するのかどうか、どの程度削減するのかという問いがある。これに対して功利主義は明らかに削減すると答える。
 功利主義者は往々にして障害を持つ人々の生を貶価すると考えられている。とはいえ、功利主義的な集計と計算をなくすことはできない。
 平等主義にコミットする哲学者は、身体的インペアメントは劇的に福利を削減すると考える。(235)
 ドゥオーキンの議論が典型だが、それらに対しても障害者の権利擁護派は不適切だとして批判してきた。

「障害者の権利擁護派は、福利ないし利益についての何らかの指標に基づいて人々を平等化することあるいは不平等を縮減することを自らの使命だと考えるような政治的正義の理論は、不可避的に不利益を受けているとされる人々を貶価(demean)すると結論づける」(236)

このような疑念に対応する三つの議論がある。それらは、分配的正義の平等主義理論に対する批判でもある。それらは必ずしも障害者の権利擁護派の主張に基づいているわけではないが、同様の関心を反映している。
 第一に、外的資源も主観的厚生も政治的正義の目的にとっての利益の適切な指標ではないし、人々の幸福な意思満足も適切ではないという批判である。「必要なものは、環境的適応に対する主張を認めることによって、機能における様々な違いを考慮に入れた指標である」。
 第二に、諸個人の資源の分配ないし福利に主な関心を寄せるものとしての正義の理念そのものを問題にする批判がある。それによれば、分配的考慮はインペアメントをもつ人々にとっての不正義の場所を認識し損ねている。分配的正義は、構造的諸要因、抑圧と搾取的な経済、社会的そして政治的な関係性を看過する。物質的資源における格差は抑圧と搾取の重要な証拠になりうるが、それらは独立した重要性をもたない。(Young 1990) 
 この立場はインペアメントについて言えば、スティグマに焦点化する。インペアメントが正義の問題になるとして、それはそれらが能力遂行や福利に影響を与えるからではなく、それらが、肌の色などと同じく、抑圧されたそして従属化された社会集団の指標であるからだ。正義が要求するのはそれらの関係性の変革である。資源の分有におけるいかなる変化も、より根本的な変革の副産物でしかないだろう、とされる。
 第三の批判は、資源、厚生、機会あるいはケイパビリティの平等としての正義と、社会構造と関係性における抑圧と支配の不在としての正義との間の中間の道を進もうとする。正義は平等な市民権の問題として理解されるべきだという。このアプローチでは、インペアメントが正義にとって重要なのは、平等な市民として扱われていないその程度に応じてのみである。
 以下では、これらそれぞれの批判を検討する。(236)

 (1) 分配的正義は環境的適応をも含む形で広がりをもち柔軟なものになりうるのかどうか。
 (2) 正義についての非分配的アプローチは、分配的配慮なくして、物理的・社会的環境における適切な改変に対する指示の資源をもつのかどうか。
 (3) 政治的平等という意味での正義の説明は、障害に関する分配的考慮と非分配的考慮を上手く結び付けることができるのかどうか。

分配的正義は環境的適応への主張を含むことができるか?

分配的正義をめぐる議論で障害はハードケースになり続けてきた。これらの議論に対して、それは障害を戯画化し、彼らを劣った無力な存在として位置づけてきたという批判がある(たとえば、Silvers 1994)。
 従来の議論は、インペアメントをもつ人々はそのライフプランを追求するのに非常に大きな資源の束を必要とすると想定してきたが、それは、「当然視」された環境が有する無力化させる力を考慮に入れることに失敗している。
 問題は、分配的正義の理論はより大きな環境的適応への主張を取り入れることができるかどうかである。
 たしかに資源を利益比較の指標とする正義理論は、環境を当然視する傾向がある。インペアメントを持つ人々に我々の社会で等しい経済的な分け前を与えることは、彼らの物質的状況を改善するかもしれないが、彼らを社会の周辺に置き去りにすることになりがちだろう。
 資源平等の図式は適合的な環境を提供し損ねることで、障害者の権利擁護派が恐れる通り、インペアメントを持つ人々の劣った地位を、自然の賦与における不足によって――外的資源の不足ではなく――不利益を受ける個人として、正当化するだろう。(237)
 他方、主観的厚生論には周知の多幸症の障害者(タイニー・ティム)の寓話が示すような問題がある。
 これに対して、コーエンのいう「ミッドフェア」指標が提案されている。その最も有望な議論がケイパビリティ論だ。これは環境を考慮する議論でもある。(238)  とはいえ、環境改変を問題にする以上、インクルージョンと生産性についてのトレードオフ問題が存在する。
 ミッドフェア・アプローチは個人的配分ではなく、社会構造と組織における改変を要求するだろう。非典型的な機能と少数派の言語を話す人は、基本的に同じ問題となる。たとえば、聾の人とアメリカで中国語を話す人は同じ問題として扱われる。不利益に対する自然/内的と社会/外的な原因という区別を否定すると、障害者の優先性はなくなる。だが、どんな人も優先性をもたず、すべてに対応した環境改変を要求するとなるとコストが非常に高くつく。他方、何かを優先するとすれば、トレードオフが問題になり、結局のところ「優先主義」的な議論が必要となる。(239)

インペアメントを持つ人々への正義は彼らに対する差別の根絶やより広い抑圧や従属化の除去によって達成できるか?

ADAなどの反差別法がある。だがそれは依然として不十分である。ADAのような表面上は中立的な規範や基準に埋め込まれた差別分析は、フェミニストによる、初期の公民権法に対する批判、つまりこの法は直接・間接いずれにしろ意図的な差別にだけ焦点を当てており限界がある、という批判に多くを負っている。
フェミニストは、健常な男性を標準とした社会構造と実践において、子どもを育てたりケアする人は存在しないかのようにされ、それが女性を排除している、と批判した。この批判は障害者については、すでにテンブロック(Jacobus tenBroek)によって先取りされている。彼は、障害者が「世界に住む」権利は、単に建物や公共空間のデザインだけでなく様々な「健常な」人々のケアの義務における包括的な変革を必要とする、と論じた。
 ADAはこれを構造的差別として取り入れている。
 とはいえ、反差別アプローチは依然として不十分だという論者もいる。様々に異なるインペアメントに対する態度や実践派広範にわたるから、というのがその理由である。(240)
 私が扱いたい問題は、我々は実質的な正義の理論の導きなしに、構造的差別を除去できるかどうか、という問題だ。何をどこまですべきか、という問いがある。
 テンブロックは「インテグレーション政策には制約がある。それは、障害者の身体的能力を超えてまで推し進めることはできない」と述べている。制約は身体的なモノだけではなく技術的、経済的なものでもある。何をどこまですべきかについての基準が必要である。
 これは、正義に対する手続き的ないし関係的アプローチのもつより一般的な問題を反映している。このアプローチは帰結(outcome)とは独立して何らかの手続きが公正であるかどうかの基準を知ることができる、とされる。(241)だが、社会と人々に経験される帰結の正義を適切に評価するための手続き的、関係的な基準を見出すことができるかどうかについては、疑問が大きいだろう。「抑圧的で搾取的な社会関係が様々な利益における大きな格差を生みだすかどうかは社会学的問題だが、我々は、そのような関係性に要因を見出せないようなところで、利益における格差を不正義であると判断できるかどうかは概念的ないし道徳的な問題である」。関係性に要因を見出せない不正義について判断することは不可能だという哲学者もいる。リチャード・ノーマンは、不正とは、ある人が別の人よりも暮らし向きがよいという単なる事実ではなく、支配と搾取の事実にある、と述べている。
 だが、支配と搾取とは、正当化されない利益をある人に与えるような社会の枠組みに参加することより以上の何かを意味しているならば、これは間違っていると思われる。支配や搾取がなくても格差が問題にされるべき場面もあるし、もしそれを看過するとすれば、この議論は、正当化できない帰結の格差が見出されるかどうかにかかわらず支配や搾取が存在している、という経験的にもっともらしくない主張をしているか、支配等の用語をそのように定義することでこれらの用語から非難の側面を剥ぎ取ってしまっていることになる。

平等な市民権としての平等の説明は、障害者政策にとって適切か?

近年、正義はある限定された社会的政治的意味において平等と関係していると論ずる政治理論家が登場してきている。それは分配的正義よりもより狭く平等を捉える立場とされている。(242)
 ここではエリザベス・アンダーソンの議論を取り上げよう。それは障害研究に対する明示的含意がある。
 アンダーソンの言う民主主義的平等は、分配的アプローチと手続き的アプローチの興味深い混合形態をとる。社会的ないし政治的命令としての包括的平等を拒否する哲学者と同様、彼女は不正義を福利における正当化されない格差とは異なり、それよりも酷い何ものかであると考えている。それによれば、社会的政治的不正義の核心には差別がある。
 とはいえ、アンダーソンは人間間のヒエラルキーを重視しつつ、同時に、このヒエラルキーを除去するためには、社会成員間のある種の平等を必要とするということを認識している。彼女はセンのケイパビリティ指標を取り上げ、活動と参加に関する議論を援用する。だが、同時に彼女は、正しい社会が追求すべき平等にとって重要なケイパビリティセットを小さなものとみなしている。

「消極的には、人びと権限を有するケイパビリティは抑圧的な社会関係を回避し、あるいはそれを逃れることを可能にするの必要なものである。積極的には民主主義社会における平等な市民として活動するのに必要なケイパビリティに権限を持つ。」(Anderson 1999: 317)

とはいえこの目標にとって必要なケイパビリティセットは、かなり広いものでもある。

「平等な市民として活動することができるということは、単に特定の政治的権利の行使能力だけではなく、より広く市民社会の様々な活動に参加することである。……そしてこうした形で活動することは(functioning)、人間として活動することを前提としている。人間として活動することができるということは、個人の生物学的な存在を維持する諸手段――食糧、衣服、医療ケア――への実効的なアクセスを必要とするし、行為する者としての基本的条件――自らの状況と選択肢についての知識、手段と目的について熟慮する能力等――へのアクセスを必要とする。」(同上、317-8)

これは法外な要請に見えるが、アンダーソンは、これは人々が心から価値を置くもの、たとえば感覚的快楽やロマン主義的な達成等の多くの事柄の平等を要求しないと強調している。(243)

「民主主義的平等は多々負えば、障害者は彼らが市民社会で平等者として活動できるような公的配慮に十分にアクセスできることを要求する。平等者として活動することができるということは、平等な速度や快適さや便利さにアクセスすることを要求しないし、公的配慮を利用することから等しい主観的効用を得ることを要求はしない。それを達成することはおそらくできないだろう。だが、現在の技術をもってして、市民ホールに入るのに他の人よりも余計に時間がかかるとして、その事実はその人の平等な市民としての地位を危うくするものではない」(同上、334)

アンダーソンは、民主主義的平等にとって重要なthresholdsは達成されうるし、より精密で厳格な包括的平等は必要ないと主張しているように見える。だがこれらの主張はいずれも問題含みである。一見したところ、アンダーソンの平等な市民の概念は無際限な資源の支出を要求する。他方、彼女はある種のケイパビリティを除外しており、それでは平等な配慮と尊重についての堅い観念を満足させることはできないだろう。
 たとえば、「医療ケアに対する実効的なアクセス」は、「実効的」の解釈次第では、慢性で進行性の病を持つ人に対する無際限な支出を要求するだろう。だが、そのような自由は保障され得ない。それは結局、限られた資源を用いて特定のレベルまで、特定の数の人々に達成されうるだけである。「人間として活動すること」に対するケイパビリティにとって、普遍的に達成可能なthresoldは存在しておらず、他のケイパビリティの強化と競合するような目的が存在するだけである。
 同じことが熟慮能力についても言える。我々はこのような能力を達成できない認知障害を持つ人々に対して、無際限の量の教育等を費やすことができる。しかしそこには、IDEA(Individual with Disabilities Education Act)にみられるように、明らかに鋭いトレードオフが存在する。精神的な機能不全(incompetence)が社会的に構成されているとして、社会は多くの複雑な事柄を甚大な社会的コストを払って単純化することになるだろう。ここにも普遍的に達成可能なケイパビリティのthresholdは存在しない。
 アンダーソンが、ある機能のレベルの「充分性」――平等と対立するものとしての――の達成の困難性を過小評価しているとするならば、彼女はまた民主主義的平等の射程から多くのケイパビリティを除外することの過酷さについても過少評価している。たとえば、彼女はカードゲームをすることや贅沢な休暇を楽しむこと等々を除外するが、コーエンのセンへの批判を拡張するならば、それでは、インペアメントを持つ人々は社会参加ができたとして、美的・文化的な刺激のない状態でそれを許されるだけだということになってしまう。(244)
 これら、たとえば孤独等々を無視することは、平等な配慮という観念と一貫性を持たないように見える。とすれば我々は、福利に関する包括的尺度を採用すべきであり、平等な配慮と尊重への厳格なコミットメントの代価として、我々の私的な生活への甚大な干渉を重要すべきなのだろうか。
 ここでは、アンダーソンの説明の弱点に焦点化してきたが、私はその最も重要な達成を見逃したいとは思わない。その議論は障害研究を主流の政治哲学者が真剣に取り上げようとした最初の努力の一つである。アンダーソンが、民主主義的平等が、過酷なトレードオフと個々人の生活への侵害的な介入を要求するその程度を過小評価しているたとしても、彼女はインペアメントを持つ人々の平等な参加への道を前進させた。

結論――収斂の見込み

正義が障害に適用される際、分配的説明と関係的説明が直面する問題には、興味深い対称性がある。分配的説明は平等な社会的・政治的参加のもつ正義にとっての意義を認識すべきであり、そのような参加に対する能力と機会が形づくる重要な個人の福利に関する指標を発展させるべきである。他方、関係的説明は、非差別と非抑圧の観念を、十分に物理的・社会的環境の再構成を可能とするように定義すべきである。アンダーソンのようなハイブリッドなアプローチは分配的説明と関係的説明の収斂への希望を生じさせる。
 しかしこの希望は幻だろう。ウォルツァーやミラーが論ずるように、正義は還元不可能な形で多元的だろう。正義についての分配的説明と関係的説明の両方が、平等な配慮と尊重の原理によって導かれているように見えるが、前者は配慮を強調し、後者は尊重を強調する。不平等へのこの二種類の説明は、緊密に相関しているが道徳的には別種のものだろう。非典型的な機能について物理的社会的環境のデザインの中で適切な説明を与えることに失敗することと、非典型的な人々を劣った存在として扱うことからくる間違いとは根本的に別の種類のものである。これら二つの過リハ、別の改善策を要求する。前者が再分配であり、後者は承認である。おそらく、正義の単一理論はインペアメントの二つの側面、つまり機能的制約の源泉としての側面と差異をスティグマ化する源泉としての側面に対する正義にはなりえない。我々は障害者政策を導く説明として分配的なものと関係的なものの両方を必要としているのだろう。
 インペアメントを持つ人々に対する正義が単一のものであるか多元的なものであるかは、哲学者と障害研究者がそれぞれを別のものとして真剣に扱うことで上手く理解されるだろうしより充分に実現されるだろう。このことは、哲学者に対して、障害研究の観点と調査にもっと注意を払うことを要求するし、障害研究に対しては、哲学的探求にあまり懐疑的にならず拒否的にならないことを要求する。対話の見込みは、哲学者が机上の分析に落ち着かずに、障害研究者がその専門を社会科学を超えて拡張することで改善される。(245)