Lippert-Rasmussen, Kasper 2006 "Private Discrimination"

Lippert-Rasmussen, Kasper 2006
“Private Discrimination: A Prioritarian,Desert-Accomodating Acount,” San Diego Law Review 43.: 817-856

 

Ⅰ イントロ

 

 国家による差別についての議論は多いが、私的な差別についてはそうではない。いずれも重大な結果をもたらすのに、この非対称性は奇妙だ。私的な差別について考える。

 

Ⅱ 私的な差別の定義

 

 差別を厳密に定義できる人はすくない。これは何故そしていつ差別が悪いのかを語ることは難しいということを意味している。確かに、ある行為を差別にする非道徳的な特性が分からなければ、それらの特性のどれが差別を道徳的な悪(morally wrong)にするのかを語ることができない。

 一つの考え方では、人々を不利にする差別(discrimination against people)は、多かれ少なかれ、その何人かを害するような仕方で、あるいは彼らに対する選好を表示するような仕方で差異化することと同義だとされる。他方もう一つは、人々を不利にする差別は、道徳的に許与できない仕方で行為することだとされる。前者の方が明らかに広い。前者の考え方では、差別という語には、自動的に非難するような力はない、ということになる。

 

 後者の意味では、差別とは不可避的に評価的な用語になる。つまり、その記述的内容は、第一の意味よりも狭くなるだろう。後者の意味で差別を使うなら、「すべての種類の差別は不正であり道徳的に正当化されないのか?」と問うことはできなくなる。しかしこのような問題を多くの論者が扱ってきた。こうした問いの余地を残すためには、差別の中間的な意味を捉える必要がある。(819)つまり、一方で差別の意味は不可避的に評価的なものではないが、他方、先の一つ目の考え方よりは狭い意味である。【以下のように定式化しよう】

 

 XYWという次元で不利にagainst(有利にin favour of)差別するのは、以下のとき、そのときに限る。(ⅰ)XYZから、Wという次元で、異なって(あるいは、XZを扱うであろうやり方とは異なって)取り扱うとき。(ⅱ)異なる取り扱いdifferential treatmentは(あるいはXにそのように信じられている異なる取り扱いは)、Yに不利disadvantageous(あるいは有利)である。(ⅲ)異なる取り扱いが、YZが、異なる社会的に顕著な集団socially salient groupesの成員であるということによって(あるいはXにそう信じられていることによって)適切に説明できるsuitably explained。(b:820; a:168

 

A 変項Variables


 変項について。Xは個人や集団、政府、私企業、社会構造にまで及ぶ。また、YZは、個人やその集団、人類にまで及ぶ(動物の問題はおいておく)。(a:168

 

B 不利益処遇

 

 XYZへの異なる取り扱いがYに不利益になるのは、Yがその処遇の結果として、Zよりも少ない利益しか得られないか、あるいはZよりも害されるかのいずれかであり、またそのいずれかのみである。ここで、relevant不利益は個人間であり個人内のものではない。この定義では、Yを不利にする差別行為は、差別行為以前に比べて、また差別行為が起こらなかった場合に比べて、Yの状況を改善しうるし、Xによってそのように信じられていることも含む。私的な助成団体が、男性の中年プロテスタント白人を援助するために資源のほとんどを費やすと宣言するとして、これを、誰も害することはないからといって差別ではない、と言う人はいないだろう。(820

 

C 不利にする差別 対 有利にする差別

 

 不利にする差別とは、誰かが不利益になるような仕方で、あるいは行為者にそう信じられているような仕方で扱われる時のみである。逆の論点が有利にする差別(favorable discrimination)にも適用される。(820)私の定式は、差別的取扱いに含まれる不利益は実際のものでありうるが、差別者に予見されていない場合も含むし、あるいは差別者にその不利益が実在すると信じられているが実際には不利益が存在しない場合も含む。前者は多くの差別がとる形態であり、後者は誰かを他の人よりも有利にする行為が失敗した場合も含む。(821

 

D 差別の様々な種別species of discrimination

 

 XYZを多様な仕方で異なって扱いうる。多様な形態がある。直接的差別と非直接的差別、認知的(cognitive)差別と非認知的(non-cognitive)差別などがある。認知的差別と非認知的差別は、素朴なものbruteでありうるか、あるいは評価ベースvaluation-basedでありうる。そしてこれらは、ヒエラルキー的形態と非ヒエラルキー的形態に区分されうる。

 直接的差別は、差別の対象者を重要な社会的顕著集団に属しているものとして表象し、その成員であることが異なる取り扱いを説明する場合である。雇用者が管理職ポストに女性を採用することを好まず、女性の応募者を無視するとして、それは直接的差別である。身体的な強さを基礎に人びとを雇う雇用者は、仮に女性をほとんど採用しないとしても女性に対する直接的差別ではない。身体的な強さに基づいて雇う雇用者が、女性に対する非直接的差別をしているかどうかは、なぜ彼がこの基盤に基づいて人を雇うかに依存する。たとえば、重機を扱うような重要な仕事を含んでいるという理由に基づいているかもしれない。そして、重機が身体的強さを必要とするようにデザインされているという理由は、男性と女性が等しくそれを操作できるようにデザインされていないからだ、と説明されるかもしれない。これが男性支配によって説明されるとすれば、この雇用者は(おそらくは咎なくblamelessly)非直接的差別をしていることになるだろう。(以上821

 認知的差別は、同じ論拠に基づいて、Zを好ましい(好ましくない)という信念を形成するよりも、Yを好ましい(好ましくない)という信念を形成しないような傾向を含む差異処遇である。ある求職者は次のような場合、認知的差別者でありうる。同一の証拠に基づいて、彼は男性経営者の会社のほうが、女性経営者の会社よりも成功するように信じる傾向にある場合。この求職者は次のような場合、非認知的差別者でありうる。彼が、女性のボスをもちたくないというbruteな欲求ゆえに、女性取締役のいるような会社に応募しないように傾く場合である。もちろん、認知的差別と非認知的差別はしばしば共存しうる。(822

 認知的差別も非認知的差別もbruteなものでも、評価ベースのものでもありうる。差別が価値に基づいているのは、次の二つの条件のいずれかを満たしているとき、そのときのみである。それは、差別が差別者の次のいずれかの見解を反映しているときである。(Ⅰ)Xの利益をYの利益よりも道徳的に見て、より多く配慮するという見解。または、(Ⅱ)両者の利害は同等だが、XYは相互に関係すべきではない、という見解。前者の例はアパルトヘイト下の黒人差別である。後者の例は伝統的な性別役割に基づく差別だろう。この二つのいずれの条件も満たさない場合、差別はbruteな差別になる。外見的に魅力的な人を優先する差別はしばしばこの形態を取る。この場合、我々は彼らの利益がより多くカウントされると考えているわけではないし、彼らは他の人と異なる仕方で関係づけるべきだとも考えていない。単に、我々は彼らの有利になるような、bruteな欲求をもっているだけである。(822

 bruteな差別も評価ベースの差別も、ヒエラルキー的差別と非ヒエラルキー的差別に分かれる。前者は差別者の欲求あるいは価値評価が、ある集団を他の集団よりも有利にする場合である。後者はそうではなく、差別者が何らかの文脈で、ある目的のためにある集団を好んだり評価する場合であり、その場合、この選好または評価は同様に重要な文脈のいくつかにおいては逆転される。(822

 

E 適切に説明される(suitably explained)異なった処遇(823-4

 

※この部分は(2006a

 

 レレバントな異なる取り扱いが、異なった社会的に顕著な集団のメンバーであることによって「適切に説明される」ことが必要である。なぜなら、XYZとは異なる扱いをし、それがYに不利益を与え、またYZが異なった社会的に顕著な集団に属しているとして、それがしかし、差別を構成しない場合もあるからだ。

 OPECの石油価格政策は、ある民族集団に利益を与え、別の集団の不利益を与えているが、誰かが異なる民族集団のメンバーであるという事実は、この政策の適切な説明ではない。(a:170

 

F 社会的に顕著な集団

 

 私の定式は、「社会的に顕著な集団」に言及している。ある集団が社会的に顕著だとは、そこに属していると認知されることが、広範囲での社会的コンテクストにおける社会的相互行為の構造にとって重要であるということを意味する。(824

 たとえば、緑色の目は社会的相互行為に影響を与えない。だが、個人の見かけの性別(apparent sex)、人種、宗教などは多くの社会的文脈で社会的相互行為に影響するだろう。(824-5

 緑色の目をしていることは社会的文脈で重要性をもたないが、容易に認知されうる。他の集団へのメンバーシップは直接的に可視的ではない。集団への所属についての認知(perceptions)は、社会的相互行為にとって非常に重要だ。

 

 たとえば、ホモフォビックな社会でゲイであるということは、彼らが自らのセクシュアリティを隠すように強く動機づけられるため、社会的相互行為を構造化しない傾向にある。(825

 この事例のように、たとえある集団のメンバーであるということが簡単に認知されないとしても、その成員であるということが認知されたとすれば、広範な文脈で社会的相互行為に重大な影響を与えると言えるならば、ある集団が社会的にsalientであると言える。(825

 

 ある集団へのメンバーシップが社会的相互行為を構造化している場合、しばしばそのメンバーシップは当人たち自身の自分たちについての感覚(sence of who they are)にとって中心的なものになることがある。とはいえ、両者、つまりある集団に属することが社会的相互行為を構造化しているかどうかと、その成員が集団に対する帰属意識をもつかどうかは分析的には区別できる。非顕著な集団の一員であることに基づく不利益取り扱いがあり、また当人はその集団に属していることに決定的なcrucial意味を持つ場合がありうる。また、顕著な集団の一員であることから不利益取り扱いを受けているが、当人にとってその集団の成員であることが重要な意味を持たない場合もある。(825

 

 社会的顕著さsalienceのこのような概念化は、二つの尺度をもつscalar次元を導入する。集団の成員であることの認知が全く重要性をもたない場合から、社会的相互行為の構造全般で支配的なものである場合があり得る。Yの成員と見なされることの方が、Xの成員と見なされることよりも社会的相互行為にとって重要な意味をもつのだが、集団Xは集団Yと同じくらい顕著でありうる。(826)★注15 ある集団はいつ社会的に顕著になるのかは不明確だが、このことはこの定式化の欠陥ではない。これは、我々の差別概念がファジーであるという事実を反映しているだけである。

 

 社会的顕著性に差別を結び付けるには、少なくとも二つの理由がある。【理由1】 実際の被差別集団のほとんどが、社会的顕著な集団である。女性、老人、障害者、ゲイレズビアン、民族的・人種的マイノリティはすべてこの意味での社会的顕著性をもつ集団である。社会的顕著性を含まない唯一の差別は、遺伝子に基づく保険料の差別だと思われる。ただ、「遺伝差別」を、非差別的であるにもかかわらず不正な遺伝情報の利用だ、と論じたとしても、何も失われるものはない。(826

 社会的に顕著な集団が関係しているならば差別的だと思われるような不利益取り扱いが、しかし、当の集団が社会的に顕著ではないので、「差別」という語が適切ではないケースもありうる。「緑色の目の人」を雇わない雇用者もいるかもしれない。この特性に基づく選別は、我々の定式化では差別にはならない(826-827)。このことはしかし、この雇用者の趣味が差別行為と同じく悪いものでありうる、ということを否定しているわけではない。ただ、この雇用者は、他の多くのケースで不利益を受ける人々を深刻に害しているわけではない。緑色の目の人々は、他の雇用者をみつけることができるだろうし、目の色を理由に雇わなかった雇用者は「風変り」だったと思うだけではないか。(827

 一般に、我々は以下の三つの条件が当てはまる限りで、異なる処遇を差別と認識する。(1)関連するそして対象となる集団に、個人が二分法的に配分されることで、集団所属が明白である。(2)すべての個人が一つだけの集団の成員であり、(3)誰かがある特定の集団の成員であるかどうかが明白である。たとえば、「同じ見た目の人々」は、これらのどの条件も満たしていない。(827

 【理由2】「差別の射程を社会的に顕著な集団に対する異なった処遇に限定することは、なぜ我々が非家族メンバーに対する差別について語らないのか、あるいは能力のない求職者に対する差別については語らないのかを説明する」(827)。同様に、誰もがある種の職には不適格だろうが、明らかに、「いかなる」職にも不適格な人々というカテゴリーはメンバーをもたない。真価(deservingness)は、社会的に顕著な特徴ではない。

  ※(828-9上段は省略)

 

Ⅲ 予備的観察

 

 プライベートな差別の道徳的な悪(moral wrongness)の問題にいかにしてアプローチすべきか?

 Ⅱでは、プライベートな差別を、三つの異なる必要条件および、それらを結合した十分条件によって定義した。最初の二つは道徳的にイレレバントに見えるかもしれない。ある人を別の人よりも良く扱うことと、人がそうすることを信じることは、悪を作り出す特徴ではない、と。差別について道徳的に特徴的distinctiveなものとは、人々に対する異なった扱いが、その人々が社会的に顕著な集団のメンバーであるということによってうまく説明されるという事実である。これにはどんな道徳的意味があるのか? それは重要な対照(relevant contrast)に依存する。(829

 第一に、重要な対照を描くケースは、社会的に顕著ではない集団のメンバーであるということで説明されるような処遇がある場合になるかもしれない。黒人に対する人種差別と、インバネス(スコットランドの都市)出身者への差別を比較してみよう。こうしてみると、社会的顕著さが道徳的に重要になりうるかどうかを知るのは困難になる。それは偶然的なものだ、と。(829) 差別が、社会的に顕著ではない集団を巻き込む差異処遇よりも悪い、ということを示さない。(829-30

 では、個人的属性の差異によってうまく説明できる扱いと、社会的に顕著な集団の成員によって説明できる扱いを対照すればよいのか? 必ずしもそうではない。集団的所属に基づく扱いはたしかにスティグマ等をもたらしうる。だが、個人属性ベースの扱いも同じことが言える。また、ある集団に対する承認を求めるようなコンテクストでは、個人的差異よりも集団に属することに基づく異なる扱いを求める場合もある。(830-1

 個人的属性に基づく個人の扱いは道徳的に好ましい、という穏当な主張は偽である。

 

 次の予備的考察は、差別はそれ自体として道徳的悪だ、と論ずることが非常に難しく見えるという主張をさらに支持することになる。まず、見たように、差別はその行為以前よりも被差別者(discriminatee)を害する必要はない。(831) 篤志家による寄付の差別処遇が典型例だ。リバタリアンからすれば、差別的篤志家は、彼自身が所有しており、寄付しない権利をもっているモノを誰かに寄付することによって、別の誰かの権利を侵害しているなどと主張しない。徳倫理学者も、万人の厚生に平等に配慮することをしていないからといって、それに何の悪も見出さないのだから、差別的篤志家は不道徳な性格を示していると主張することはできないだろう。カント主義者も、篤志家はある他者に少ない利益しか与えないことで、その他者を手段としてのみ扱っている、とは言えない。

 目的論的平等主義者も、この篤志家の差別は、寄付をしなければ本人の暮らし向きはよりよかったのだから、不平等を縮減しているのであり、差別は必然的に悪だと主張できない。(832

 差別がそれ自体として道徳的に悪であると論ずることが難しい第二の理由は、個人を不利にする差別は様々なものがあるからである。

 

 つまるところ、差別は、倫理学者が論ずるような意味で――例えば殺人について言われるような意味で――それ自体で道徳的に悪でもないし、道徳的に望ましくないというわけでもない。一つの可能性は、差別のすべてではなく、ある種の形態のものが必然的に道徳的に悪だということである。(833

 

 注20 ある人が所属している集団の諸属性に基づく扱いと、ある人がある集団に所属しているということに基づく扱いは異なる。たとえば、私はある個人に、その人が属する宗教団体が暴力的な政治的活動を行いがちであるという理由で、他の人よりもその人がより暴力的な政治的活動に関わりやすいという属性を帰するとして、わたしは彼を、彼が属している集団の属性に基づいてのみ扱っている。他方、私が彼の属性について、暴力的な政治活動に関与しやすいという性質を帰すとして、その基盤が、彼の宗教的所属の情報を含む私の知識にある場合、私は彼を単に彼が属している集団の属性だけを基盤にして扱っているわけではない。この第二の場合、私は彼の属性と、彼が属している集団の属性との間のギャップを示唆する情報に開かれているからである。

 

Ⅳ 真価-優先主義 Desert-Prioritarianism

 

 真価対応的優先主義(desert-accomodating prioritarianism:以下DP)は、プライベートな差別の道徳的な悪を最もうまく説明するだろう。アーネソン「平等主義と責任」では、(833

 

 制度と実践は、道徳的価値を最大化するように設定され、また行為もそのように選択されるべきである。ある個人にとって得られること(喪失を避けること)による道徳的価値は、(ⅰ)当人が得られるウェルビーイングの量が大きくなればなるほど増大する。(ⅱ)当の利益を受け取る(当の喪失を回避する)以前の、個人の人生のウェルビーイングの予期が低いほど、増大する。(ⅲ)ある個人がその利得(喪失の回避)に値する程度が大きければ大きいほど、増大する。我々は、優先性と責任制によって重みづけられたウェルビーイングを最大化すべきである。(833に引用)

 

 と述べている。DPと功利主義は次の点で異なる。①福利を卓越主義的な方向性に沿って解釈すべきかどうかについてはオープンである点。②真価は功利主義では手段だが、DPでは本質的な道徳的意義をもつ点。③分配が重要だと考える点。DPは、より平等な分配を好むからだ。とはいえ、DPでは、平等そのものは道徳的重要性をもたない。(834

 

 DPは差別の異なるあり方の間の道徳的な区別のいくつかを説明する。第一に、アファーマティブアクションの「逆差別reverse discrimination」を考えよう。DPは、暮らし向きの悪い人を有利にする逆差別と、そうではない非-逆差別――通常の差別――との違いを説明できる。第二に、我々は状況が悪い人への差別の方が、その人により害を与える傾向にあると考えるが、DPでは、なぜ脆弱な、スティグマ化された集団を不利にする差別が、特権的でスティグマ化されていない集団への差別よりも道徳的に悪いのかを説明する(834)。第三に、能力を欠く求職者が社会的に顕著な集団かどうかを考えよう。DPは能力を欠く求職者への差別は必然的に道徳的に悪だ、ということを含意しない。個人の資質と仕事が一般に適合していることを、道徳的価値の最大化の効率性が要請するからである。(835

 害の考量に訴える他の説明と同様、DPの差別の悪についての説明は、社会的顕著集団の成員であることによる扱いを、その他の扱いと区別する理由を説明する。理由は二つある。第一に、スティグマの害がある。(835

 第二に、社会的に顕著な集団に属することに基づく異なる処遇は、「個人的な差別行為」は「体系的で不公平な機会の喪失frustrationに結びつき」がちである。(835) 非顕著集団への不利益取り扱いは、そうした累積的な害をもたらさない。それぞれの差別行為に含まれる害は、ゼロにきわめて近いかもしれないが、差別行為の限界害marginal harmは特定の個人に不利な差別行為のある種の敷居に達すると急激に上昇する傾向がある。(836)したがって優先主義原理を採用するならば、我々は単に個々の差別行為にそれを当てはめるのではなく、行為のセットないしシリーズに適用する必要がある。

 

 これら二つの理由で、社会的に顕著な集団に属することに基づく不利益処遇に含まれる害は、個々の行為を超えて拡大する傾向があり、個人的行為を横断して累積される傾向がある。他方、社会的に非顕著集団や個人的特性に基づく不利益処遇には同じことは言えない。(836)
 とはいえ、DPへの批判や問題の指摘もある。これを確認しよう。(837

 

A

 

真価優先主義に対する一つの反論は、もし差別が悪いのが単にそれが道徳的価値の集計の最大化に失敗しているからであるとすれば、差別に伴って特筆すべき悪はなくなってしまう、というものである。他のすべての加害的なあるいは真価レベルを削減するような種類の行為は悪いという話と、差別が悪いのは正確に同じだということになる。これは正しくはないと反論者は言う。何故なら、我々は差別は特段の仕方で悪いということを知っているからだ。たとえば、マット・カヴァナーは、平等理念に訴える差別の悪性の説明について、それは「差別に伴う特別に悪いものを把握しているとは思えない」と反論している。

 この反論には応答可能である。差別が特段の悪を含んでいるという話には二つの方向性がある。第一に、差別は、義務論者が考えるような虚言や殺人に伴う基本的な道徳原理を侵害するのと同じく、基本的な道徳原理を侵害する、という議論。第二に、差別は往々にして、差別だけに関係するような種類の危害あるいは真価の定言を含んでいるからだ、というもの。たとえば、ある人の社会的アイデンティティに対する恥の感覚や、劣位感、あるいは少なくとも劣ったものとして見なされるという感覚などである。真価優先主義が、第一の意味での差別に伴う特段の悪があるということを示していないという反論は、疑問の余地があると思われる。第二の意味での差別に関わる特段の悪は何もない、と真価優先主義が考えていると反論することは、明白な誤りである(837-8)。

 上で見たように、真価優先主義と他の危害ベース説明は、差別に含まれる害は次の二つのいずれかの意味で、特段のものだと言うことができるからである。差別が含む害を及ぼす効果の種類かあるいは差別されることが構成すると考えられうるような害の種類のいずれかの意味で特段のものだと。

 

B

 

 別の反論は次のように言う。差別が悪いのが、誰かが害されるからだとすれば、差別は差別されている人に害を与えるからまず何よりも悪いと言うことにならざるを得ない。差別の悪を害に結び付けるいかなる説明も、差別にさらされる人によって被られる害にとくに何らかの形で差別が結び付く、ということを確証しなければならない。そして、真価優先主義の説明がそうしているということは否定されるだろう、と。

 XYに不利な差別をしており、第三者のZは、差別を被っても、差別をしている側でもないとしよう。二つのケースが考えられる。第一に、ここで、YZよりも害されていることが悪いのかどうか、第二に、Y(あるいはZ)がXよりも害されていることが悪いのかどうか。差別されていることによって誰かが道徳的により評価に値するdeservingになるわけでは必ずしもないとすれば、他の条件が等しければ、次のようになる。つまりYが差別されていることに含まれる害が、ZよりもYに降りかかるかどうかは道徳的に重要ではない、と。

 この含意は真価優先主義にとってダメージングではない。民族的マジョリティが、ある民族的マイノリティを差別しているとする。我々はまずは、これは道徳的に悪いと見なすのだが、次に、最初に考えたこととは反対に、この差別はその民族的マイノリティを害していないことを発見する。我々がこのマイノリティに降りかかっていると考えた害は、実際には、別の民族的マイノリティ――差別されていないマイノリティ――に降りかかっている、と。私は、我々はこの差別は当初我々が考えたよりも悪いものではない、と安心しつつ結論付けるだろうとは思わない。第二のポイントは次のようなものだ。誰かの行為が真価を決定するとして、差別されているということ(あるいは不正な扱いにさらされること一般)は、それ自体として、当人の真価ステータスに影響しえない、と。このことはもちろん、もし二人の人が同じレベルの利益を享受しているとして、そしてそのうちの一人が差別にさらされているとして、後者は、彼の利益を獲得することがより困難であるからといって他の人よりもヨリ高い真価レベルをもつようになりがちだという予想と整合的である。(838

 このように明確化すると、XY(あるいはZ)が害されているかどうかは道徳的に重要ではないということになる。この含意はダメージングだと論ずる人もいるかもしれない。しかしながら、我々が検討した事例において、道徳的に問題なのは、害ないし利益が差別者Xに降りかかっているのか、あるいは別の人(差別の犠牲者であるY、あるいは第三者のZを含む)に降りかかっているのかであり、この差別者は、一人の差別者であるということから道徳的により評価に値しないだろう(the discriminator is presumably morally
less deserving by virtue of being a discriminator
)。こうしてみると、ある害が、XではなくYないしZに降りかかっているためにより悪い、という説明になる。多くの人にとって、このことは、真価優先主義を、直接的な優先主義あるいは真価に何の内在的道徳的重要性を認めないような他の見解よりも、より支持するようにさせると思われる。

 

 次に、誰かが差別にさらされているが、それが反対に、道徳的価値を最大化する場合を考えてみよう。被差別者は、逆境が彼の成功への意志を強め、劇的に彼の真価レベルを増大させるために、利益を得るかもしれない。または、他の人々の利益が、被差別者への害を道徳的に言って埋め合わせ、さらにそれを上回るかもしれない。真価優先主義では、こうした差別は道徳的に悪ではない、とされる。だが、この含意は問題が多いように見える。真価優先主義に反対する論者は、虚言や詐欺、殺人が道徳的価値を最大化するという事実は、それを道徳的に許容可能なものにはしない、と論ずる。

 他方、真価優先主義側は、利益を与える差別行為に関わる事例に何らかの道徳的不都合があることを認めうるが、この道徳的に不都合なものは、その行為を悪いものにはしないと強調する。道徳的価値を最大化するある種の差別行為が悪いということを拒否することは、その行為者が、その行為を行ったことで批判されえないということを含意しない。(839)例えばその行為者は、その行為が被差別者の害に均衡するあろうと信じる理由をもっていたかもしれない。したがって行為を行うことへの非難を引き付けるattractかもしれない。その行為者の性格が差別的行為をさせるようにしたことが悪いということを拒否することを、我々に強いるわけでは必ずしもない。ほとんどの場合、差別行為は道徳的価値の最大化からは程遠く、我々はそうした行為をしないように我々の性格を涵養するべきである。したがって、もしある差別行為が道徳的価値を最大化するとして、たとえその差別行為が悪そのものであるとは言えないとしても、我々は依然としてその行為、彼の道徳的理由づけあるいは性格によって差別者を批判できる。

 たしかに、我々がいずれもできないような事例はあるかもしれない。だが、そのようなケースでは――たとえば差別者が彼の行為によって被差別者の決意を強め、それによって彼に利益を与えようとする意図を持っているような場合――、我々はそこに、差別行為に関して何らかの道徳的不都合さが実際に存在するという印象に対する確固とした道徳的直観を持つことができそうにない。

 

D 道徳的価値を最大化する害のある差別の道徳的許容可能性

 

 道徳的価値の最大化が、公式の差別formal discrimination――たとえばある社会的顕著集団に対して、他の社会的顕著集団には許されていることを禁止するような法的差別――と、実質的差別――社会的顕著集団に基づく異処遇が、それがない場合よりも当人たちを悪化させる差別――を通してしかできない場合を考えよう。ここで我々が提唱している見解では、差別はこの状況で道徳的に要請されるのだろうか? だが、それは明らかにもっともらしくないのではないか。だが、これは本当にそうか?

 肯定的に答える理由の一つは、誤解を含んでおり、したがってひとまず脇に置いておくのがよい。ある種の行為(虚言、殺人、差別等)が我々が生活しているのとは非常に異なった状況で道徳的に許容可能と考える人は誰もが、つまるところ我々の現実の状況でもこの種の行為は道徳的に悪ではないという見解にコミットしていることになると疑われるかもしれない。ある種の行為がいかなる可能な状況でも道徳的に悪だという主張はしばしば、その行為は深刻に道徳的に悪だということを含意することになるが、このことは厳密にそうであるわけではない。(840-1) 原理的には、ある種の行為はどんな状況でもマイルドな形で道徳的に悪だと考えることができる。この場合、重要な種類の行為がある種の状況下でのみ悪いと考えた人は、その行為が悪いような状況では、いかなる状況でもそれらの行為をマイルドに道徳的に悪と考える人よりも、道徳的に「より」悪いと考えるだろう。したがって、現在の見解は、我々の現実の状況――公式の差別と実質的差別が道徳的価値を最大化しないような状況――で遂行された差別的行為について、道徳的に緩やかな見解を含んではいない。

 この尤もらしくなさの主張を適切に評価するためには、より詳細に考える必要がある。公式の差別に焦点を絞ろう。というのも多くの人々がそれは実質的差別よりも悪いと考えているようだからである。たとえば、女性がある種の仕事をすることを禁止することを、価値最大化のために要求するような性差別的な法を考えてみよう。この要請を説明する、いくつかの理由があり得る。(1)その法がなければ、人々はより真価の劣った状態になるだろうし、道徳的に見て得られるべきよりも利益が少ないだろうから。(2)この法の不在は人々の利益を減少させるから。非性差別的な方を保持するために女性に害を与えたいと思わない人々は、少なくともこのような第一のシナリオに悩まされることはないだろう。

 もし男性が女性より暮らし向きがよい場合で、非性差別的な法から男性は多くを失うが女性は少ししか得られない場合には、事態は変わってくるだろう。男性が女性より暮らし向きが良いとすれば、優先主義アプローチからは、男性のロスが女性のゲインを超過し、それを上回るのでなければならない。もし男性が女性よりも暮らし向きが悪いならば、男性の利益の大きさと女性のロスの大きさに対して、公式な差別的な法も道徳的に許容可能だということは、それほど反直観的ではないだろう。この含意がもっともらしくないと主張するためには、差別に反対する絶対的な義務論的制約に同意しなければならないように見える。そしてほとんどの人は絶対的な義務論的制約はもっともらしくないと考えるはずである。(841)実際、女性に有利なアファーマティブアクションはこのラインにある。(841-2

 以上、どんな状況下で私的差別が悪いのかについてのある説明を提示し擁護してきたが、以上は決定的なものからは程遠い。さらにDPを支持できる理由を、その対向者である尊重ベースの説明に比較したときのメリットを通して提示する。(842

 

Ⅴ 尊重ベースの説明

 

 差別が道徳的に悪いのは、それが被差別者をリスペクトするのに失敗しているからだと言う論者もいる。ある行為や実践が個人のリスペクトに失敗するのは、個人の道徳的地位の過小評価を含むときそのときのみである。尊重ベース説明では、差別は、たとえそれが誰も害していなくても、そしてある人の真価レベルを減少させなくても、道徳的に悪いだろう。(842
 「この見解では、パーソンとして評価されない人間に対する差別(たとえば新生児やアルツハイマー病の末期の人)は、パーソンとしての質をもち、尊重に値するような人に対する差別と同程度に道徳的に悪くはない。」(843

 尊重ベース説明はしばしばカント的道徳理論に関わる。とはいえ、帰結主義者も尊重を公準maximとして扱うことでディスリスペクトを考慮に入れることもできる。以下の議論はカント主義か帰結主義かの選択からは独立している。

 尊重ベースは不十分になることがある。①道徳的地位に関する信念なしに認知的差別者であることは可能と思われる。たとえば、相手を本来よりも高い道徳的地位をもつ人々に所属していると信じながら、彼らに対する認知的差別を行うことは可能である。②非評価的差別、たとえばbrute欲求に基づく差別は道徳的地位に関する価値判断を含まない。(843

 尊重ベース説明が最も説得的なのは、評価的、非認知的差別である。尊重ベースによればこれは必然的に道徳的悪になるが、DPでは偶然的である。ラリー・アレキサンダーの議論を見よう。

 アレキサンダーによればほとんどの差別は。帰結主義的理由で悪である。(843)だが、彼は、一つの種類の差別は別の理由で悪であると論ずる。異なる集団の成員の異なる取り扱いが、道徳的価値の差異化の判断を表示している場合である。アレキサンダーは帰結主義的説明は尊重ベース説明で補われるべきだと論じている。私もその主張のほとんどに同意するが、同意できない点もある。
 アレキサンダーは「道徳的地位」と呼ばれるものが重要だと述べる。そして、この種の差別が道徳的に悪い理由を三つの解答を示唆している。第一に、間違った道徳的判断を反映している(誤謬論)。第二に、単に間違っているだけでなく、比較について間違った判断をしている(比較誤謬論)。第三に、比較の誤謬を含むのだが、その判断が不合理な場合である。それぞれ見て行こう。

 

A 誤謬論 A Falsehood Account

 

誤謬論によれば評価的差別が悪いのは、それが誤った道徳判断に基づいているからである。靴化の注目すべき含意がある。 第一に、この説明では、不利にする差別と有利にする差別(依怙贔屓)は、道徳的価値に関する誤った信念に基づいているとすれば対称的であり、いずれも同じ理由で悪い。

 第二に、XYについて、肯定的な偏見をもっており、それがYが現にそうであるより価値があるという間違った判断にもとづいているとき、それは、Xが自分自身をYよりも価値があると考えているときと同じくらい悪い。男性の性差別主義者が女性を劣っていると見なすことと、女性が自己卑下して自分は劣っていると考えるのは同じく悪いということになる。

 第三に、誤った道徳的判断は、絶対的に間違っているか比較的に間違っているか(あるいはその両方か)でありうる。ある個人が、自分自身を別の人Yに比べて道徳的に価値があると思っており、同時に、自分自身とYはいずれも、現にそうであるよりも【比較に基づかずに】道徳的に価値があると考えているかもしれない。(845

 この見解を評価するために二点明確化しておく必要がある、第一に、誰かを道徳的価値に関して誤った判断に基づいて扱うとは何か。一つに、道徳的地位がこの処遇の道徳的に許容可能性と比較してより低い場合にのみ、対象者の道徳的地位に基づいていると言える、という解釈がありうる。(845

 しかしこれは却下されるべきである。第一に、道徳的許容可能性とディスリスペクトをもって扱うことは別である。第二に、リスペクトを払いつつ、誤った情報に基づいてある人を許容できない仕方で扱うこともあり得る。第三に、ある人の道徳的地位について間違った情報に基づくことと道徳的許容不可能性は別である。

 明確化が必要な点の二点目は、道徳的価値概念とそれを誰が保有できるかである。ある種の感覚的存在者は道徳的価値をもつと言う見方があり得る。たとえばカントは理性的存在だと述べた(846)。自己意識のある人だろうか。(847

 あるいは自己意識と感覚の程度が重要なのか。アレキサンダーは徳のある人格はそうではない者よりもより道徳的価値があるという見解を――彼自身はコミットしていないが――候補として認めている。例えばガンディーのほうがヒトラーよりも道徳的価値があると。

 こうした点を念頭に、ある行為を道徳的に悪にするのは、道徳的価値の判断の単なる誤謬なのかどうかが問題になる。XYがデザービングではなく、Zはデザービングだという誤った信念を持っていたため、Yを、Zよりも価値があるとして許容不可能な形で扱った。次の事例はYZについて正しい信念にもとづいて、Xが同じように扱った場合である。両者は異なるのか、そしてどちらがより悪いのか?(847)

 二つの事例は道徳的に見て違わないと言う見方があるだろう。だが二つ目のケースの方が悪いのではないかXの行為は第一のケースでも悪いが、彼は少なくとも彼が悪く扱った人がデザービングではないと信じていた。第二のケースでは単にXの行為は悪いだけでなく、彼は、彼が不胃液扱いをした人がデザービングではないという信念を欠いていた。もしそう言えるならば、差別の悪は誤った信念を反映しているからだけではありえないということになる。(848

 

B 比較的誤謬論 The Comparative Falsehood Account

 

 以上と同じ指摘ができる。

 

C 不合理な比較的誤謬論 The Irrational Comparative Falsehood Account

 

 不合理な誤りに基づく方がより悪いのか?(848

 性差別主義の男性教授が女性の同僚のサバティカルを、彼の男性と女性の道徳的価値の違いについての不合理で間違った信念に基づいて拒否するとしよう。さらに、この教授には知られていなかったが、この同僚はこれまで様々な不正を行っており非常に資格を欠いた人間であり、道徳的に言って、サバティカルを拒否されるべきだったとしよう。この場合、我々は、教授の行為は道徳的に正しかったと言うだろう。それは単にこの男の不合理で誤った深淵に基づいていただけだが、この状況では、同僚の道徳的地位についての正しい判断に導いていた、と。もちろん、この教授の動機は、彼の性格の結果を表しているのだが。(850)
 以上から、DPがアレキサンダーの尊重ベース説明よりも劣っていないことは明らかになった。これは、尊重が私的差別の道徳性にとってイレレバントであるということではない。尊重はレレバントである。とはいえ、それはDP説明のなかも一貫させることができる。

 

Ⅵ 悪い私的差別にかかわる権利――概念マップ

 

 悪い私的差別を行う権利があるとすれば、そうした活動を禁止する方が存在すべきだとは言えないような場合のみである。(850)法が禁止するべき差別の種類について、DPから考えよう。
 DPからすれば、ある種の悪い私的差別を禁止する方が存在すべきなのは、その法が道徳的価値を最大化するときのみだということになる。6つのケースが考えられる。

 

【以下省略】