西阪仰、1996 「差別の語法――「問題」の相互行為的達成」栗原彬編『講座 差別の社会学 第1巻 差別の社会理論』弘文堂

■引用

 

「社会学がとり扱ってきたことがらのなかには、消極的にしか規定しえないものが多くある。たとえば、権力に屈服するというのは、まさに「権力のゆえ」としかいいようのない「理不尽な」行動であり、(とくに機能性の)精神病者のふるまいは、まさに「精神病のゆえ」としかいいようのない「不可解な」行動である、というように。ここから、社会学的分析にとって独特の困難が生じるように思う。もし権力の社会学的分析が、権力への屈服になんらかの社会的に有意味な理由もしくは原因のあることを示してしまうならば、その行動はそのような理由もしくは原因によって、しかるべき次第でなされたものとなり、もはや「権力のゆえ」というべき理由がなくなる」(61)

 

→ 「社会学的分析は、成功したととたんに、その対象を失ってしまうのだ。おそらく同じことは、差別についてもいえる」(61)

 

「差別とは何かをとりあえずのべようとすれば、それはやはり消極的な言い方をとらざるをえない。つまり、それは(正当な)理由の【ない】分け隔てである。……もし社会学者が、A氏が「Xであるがゆえ」に分け隔てられる理由や原因を十分特定できるならば、ここでも、A氏の排除はしかるべくなされたものとなり、もはや差別ではなくなってしまうように思う」(62)

 

「わたしたちは、「理不尽なもの」「不可解なもの」「理解できないもの」の成立を論じるためのことばをもっていない。理解できないものは、理解しようとして発せられることばを、かならず遁れてしまう。これは、おそらく権力・精神病・差別といった概念の文法にかかわることがらである。とりわけ、社会学ができるかぎり合理的なことばの束であろうとすればするほど、この根本的に不合理なものごとは、社会学者たちの賑やかな議論のずっと下のほうで沈黙のなかに閉じ込められるほかない」(62)

 

「ここで問題にしたいのは、あくまでも理不尽で不可解なものを、まさに理不尽で不可解なものとして理解・説明しようとするときの、論理文法上の困難である」(64)

 

注(2) 「江原由美子の「差別の論理」にかんする影響力のある論考(江原一九八五)が語る「差別を論じることの困難」も、この論理文法上の困難を差し示している【ママ】ように思う。差別は(定義によって)理不尽である。にもかかわらず、この理不尽さは隠されており、分け隔てはむしろ正当化(すなわち理由づけ)されている。これが差別に他ならない。つまり、分け隔てに(たとえば、しかじかの差異にもとづいて、といった)理由説明を与える実践は、差別をすることの内部にある。だから、差別的な分け隔てがなされる次第を説明しようとする企ては、いつも、差別をすることに絡めとられかねない。であるならば、差別について確実にいえるのは、理不尽にも「排除」されている、ということしかないのだ」(75)

■コメント

 

 上の西阪(1996)の議論は、「しかるべき」「理不尽」という語の意味の誤解の上に成り立っている。

 「正当性」と「説明・理解可能性」つまり理由や原因や意味を特定して説明でき、また理解できることは、違うからである。説明・理解できるからといって、その理由が「正当」であるとは限らない。本人の主観的動機の説明が文法的に理解できるからといって、行為の正当化の理由として採用されるとは限らない。

 西阪の議論では、「理不尽さ」は、「理由説明を与える」ことと対置され、かつ「正当化」が「すなわち理由づけ」とされている。つまり、理由説明可能性と正当性が等置されて、この二つが「理不尽さ」に対置されている。 たしかに、西阪も言うように、差別は「理不尽だ」と言える。そして不当であると思われる。西阪の枠組みでは、「不当なもの=理不尽=説明も理解もできない」ということになり、また説明・理解可能なものは不当ではない、ということになる。

 だが、このような西阪の等式は間違っている。 西阪の枠組みでは、たとえば「統計的差別」という語もナンセンスだということになりかねない。

 理由にもとづく説明可能性は、「正当化」の〈試み〉の一つではある。だが、一般に、任意の「差別」と思えるような行為に対する特定の説明や「理由づけ」に対して、その説明を理解できたとして、しかしそれがその行為を「正当化できているのか?」とつねに問うことができる。正当化の〈試み〉がありうるということと、その試みが「正当化」に成功しているか否かということは、まったく別である。
 この点、西阪の議論では「正当化」と「理由づけ」、そして「説明可能性」が同一視されている。これにより西阪の議論は混乱している。

 たとえば、「理不尽」という語について。「理不尽」という語には、本当に文法的に意味が不明であることも含まれるが、他方で、単に「理由」がないとか、説明できないとか、理由が理解できない等といった意味には限定されない意味がある。われわれは、「理不尽な説明」という表現が十分に成立することを知っているし、また理解できる。

 殺人の理由に関する「太陽がまぶしかったからだ」といった説明は文法的に理解できる。そして、説明内容を理解した上で、しかしそれは、殺人という行為の「正当化」の理由にはならないという意味で「理不尽だ」として却下することができる。また、「子供を殺されたからだ」という説明を理解し、さらにある程度共感できたとして、それは正当化理由にはならないと言える。
 そして、まさに差別を告発する場面などで「理不尽な説明」という表現が使われることを容易に想像できる。それに対して、西阪の議論では、「理不尽」と「説明」「理解」の可能性が対置されているため、「理不尽な説明」とか「理不尽な理由」といった表現を使うことができない。
 西阪の理解に反して、「理不尽さ」という語は、「説明不可能性」を超えて、道徳的ないし規範的な意味も含みうるということである。そして、道徳的・規範的な正当性と、理由や原因による説明可能性は異なる。西阪は、理不尽な行為を「説明」してしまうと、その行為を「正当化」したことになってしまう、と考えているようだが、それは誤解である。

 ある行為の理由を記述・説明できるかどうかと、その理由や説明が規範的に妥当ないし正当であるかどうかは異なるからである。

 さらに、少なくとも説明が存在しなければ、その説明が「妥当」「正当」であるか否かを問うことさえできない。差別をめぐる問題とは、ある種の区別の正当性問題である。ある種の区別が不当な区別すなわち差別であるか否かを問うことは、その区別の「理由」の妥当性を問うことに他ならない。

 以上から、西阪(1996)の議論は成功していないと言わざるを得ないだろう。