坂本佳鶴恵(19862005)「社会現象としての差別」『アイデンティティの権力――差別を語る主体は成立するか』新曜社

■まとめ

 

 「差別」のなかでは、つねにある区別が差別か否かが争点になる、という江原の論点の一つを展開させた議論。

 

目的

「差別とされる事象が共通に持つ性質を抽出し、差別とは何であるかを規定すること」(2

「あらゆる差別が共通にもっている性格があるとすれば、それは何なのか」(3

 

 坂本は、従来の差別の定義を、「差異による定義」「不利益による定義」「平等による定義」に分けられるとした上で、そのいずれも妥当ではないと指摘する。

 まず、「差異」と「不利益」に基づく定義について、それは「正当性の問題を欠落させてしまっている」(17)と指摘される。差異に基づく定義については、「特定の社会集団に属する個人を違ったように扱う行動」が、それ自体で不当な区別つまり差別だとは言えない。また、「本人の責任とは無関係な自然的社会区分に属する個人に対する不利益な取り扱いを差別とする不利益による定義」については、逆に、たとえば宗教など、本人の選択に関係する理由による不利益も差別だと言える場合がある点で妥当ではない(18)。

 他方、「平等による定義」に対する坂本の批判は次のようなものである。「一般に平等/不平等が客観的に規定できない……私たちは何が正当であるかという価値命題を科学的に論定できない。したがって、普遍的な実体として確定されている差別の存在を定義できない」(18)。

 これに対して坂本は、むしろ「差別が判定者を有する価値判断であることに注目すべきである」(18)と述べる。つまり、

 

「実際には何が差別であるかは社会的に共有されているわけではなく、すべての人々がある行為を差別と指摘するわけではない。むしろ、差別という現象はある事柄を差別とする人々がいるのに対し、差別でないと主張する人々がいるということに問題の根本がある。差別の諸事例の多くは、それが差別であるのかどうかという認識上の相違の上に起こっている」(18

 

 こう述べた上で、坂本は「差別はあらかじめ存在するのではなく、判断され、指摘されるという告発作業に内在するものである」(18)と結論づける。坂本によれば、「差別の基本的性格」とは、「当該社会の人々に差別と判断され、告発されたものであること」である。

ところで、坂本は、この見方には利点が二つあるとする。「第一に、差別はある事象が差別であるかどうか自体がつねに争われるという、基本的性格をとらえることができる」という点であり、「第二に、差別を単一の実体的事象と見る必要がない」という点である。

 では、「告発」とは何か。坂本は、「告発」を、当該社会で共有されている複数の「規範」のあいだにある「ずれを指摘する作業」であるとしている(22-24)。複数の規範について、坂本は三つの規範を挙げている。第一に、「自明視された日常的実践にかかわる」規範(「状況の規範」)、第二に、「社会的にその存在が意識され」ており一定の制度として具現化されている規範(「制度の規範」)、そしてこの制度の根拠となる規範――たとえば「平等イデオロギー」のような最終的な価値となる規範(「根拠の規範」)。坂本によれば、「差別は、根拠の規範によって制度の規範を、制度の規範によって状況の規範を告発するという、これらの規範間のずれの表面化された形態」である。

 このように論じた上で、坂本は最終的に「差別」を次のように定義している。

 

「差別は、同一社会内で一致すると想定されている異質な規範間のずれが、成員により告発されあらわになった、社会現象である」(24

 

ここから、「欧米と日本」では異なった正当性規範があるため、「差別も異なってくる可能性」があるとされる(24)。

 

「結局、およそ差別というものに共通の原因など存在しない。強いていえば、カテゴリー間の同一性を指示する正統性規範が存在することであるが、これは通常の意味での差別の原因ではない。ある事柄を「差別問題」として語るということは、これ以上の意味もこれ以下の意味ももつことができないのである」(25

■ コメント

 

 この坂本の議論は「差別とは何か」という問いに答えていると言えるか。

 言えないだろう。

 問いの対象が「差別」から「差別問題」へとスライドしているからである。それにもかかわらず、坂本の議論では、このスライドが明確に自覚されていない。坂本の議論のなかに「差別とは何か」という問いに対する答えを探すとすれば、告発されたものはすべて差別である(当該社会で告発されなければ差別ではない)という答えになる。坂本はたとえば、

 

「告発の正当性を相手に理解させることが困難であったとしても、告発がなされれば、それは、その主張がおこなわれた時点で、その人々にとって、また社会にとって、差別問題と定義すべきなのである。相手が納得しなくても、告発した当人たちにとって差別なのだから、相手を説得することが困難であるかどうかは、それが差別であるかどうかとは関係がない」(29

 

 と述べている。この第二文は不明瞭だが、誰かが「差別だ」と言うだけで、ある行為は「差別である」と言える、という主張として解釈できる。しかし、この主張は妥当ではないだろう。

 これは、坂本の議論の対象が、実質的には「差別」ではなく「差別問題」についての定義であること、それにもかかわらず、この両者の区別が明確になされていないことに起因する。

 上の第一文で主張されているのは、「告発がなされれば……差別問題と定義すべき」だということである。他方、第二文で問題になっているのは、「差別であるかどうか」である。だが、「差別問題の定義」と「差別の定義」は異なる。ある論争や議論の対象について、それが「差別問題である」と言えるとしても、そこで争点になっている行為が「差別である」と言えるとは限らない。

 「これは差別ではないか?」という問いが意味をもつこと、つまり「差別問題」の存立のためには「問い」や「告発」が存在しさえすればよい、という議論は妥当だと言えるかもしれない。たとえば、「〈良い音楽を楽しむ〉という行為は聴覚障害者に対する差別ではないのか!?」、「〈良い絵画/映像作品を鑑賞する〉という行為は視覚障害者に対する差別ではないのか!?」といった「告発」は、少なくとも「問題提起」としては無意味ではない。しかし、この問いが意味をもつことを認めるからといって、そのことは、この問いに対する「YES」という回答を与えること、つまりそれらは「差別である」と言うことでは必ずしもない。

 坂本の議論では、「差別」の定義と「差別問題」の定義が明確に区別されていないため、ある事柄に対する「差別ではないか?」という問いや、「差別だ」という告発があるという事実が、「差別問題」の存立だけでなく、ある行為を「差別である」と定義するために十分だ、ということになる。つまり、告発された行為はすべて差別である、ということになる。坂本は次のように述べている。

 

「告発した当人たちにとって差別なのだから、相手を説得することが困難であるとしても、それは差別であるかどうかとは関係がない」(29

「具体的に存在する社会現象について、それが差別問題であるかどうかを明確に規定することを可能とする、すなわち、それは差別ではないと言う人々がいても、差別だと言う人々がいれば、それを差別問題として考えるべきである」(32

 

 前者で問題になっているのは「差別であるかどうか」であり、後者では「差別問題であるかどうか」である。だが、告発があれば「差別である」という議論と、告発があれば「差別問題がある」という議論はまったく別の議論である。

 たしかに、「Xは差別ではないか?」と告発する者が一人でもいれば、「Xは差別である」と言える、という立場もそれ自体一つの立場ではありうる。だが、それは「差別」という語のインフレでしかないだろうし、少なくとも、差別をめぐる争点を解決する議論ではあり得ない。つまり、差別論という観点からみても理論的に後退だと言わざるを得ないだろう。