Tan, Kok-Chor "Justice and Personal Pursuits," The Journal of Philosophy vol. 101. no. 7 (2004): 331-362

◆コーエン How comes ? の議論に反論し、Institutional approach, institutional egalitarianism を擁護した論文

 

 たとえば「個人的なことは政治的だ」というスローガンは、文字通りに読めば、個人的なことのすべてが(暗黙のうちに)政治的だ、ということになるが、それは極端である。そしてもし、個人的なことの一部が政治的だという主張ならば、制度論的平等主義もまた、個人的選択のすべてをパーソナルなものとして制度つまり政治から除外するわけではなく、認めている(336)。

 また、コーエンは格差原理のみを対象にするが、ロールズにおいて格差原理は、正義原理に適った他の諸制度と相互に支え合うモノとして位置づけられており、諸制度の組み合わせによって利己的な欲求を是正する可能性に開かれている。さらに、コーエンはロールズが人々の利己的な選好や嗜好をそのまま前提にしていると想定しているが、ロールズは「正義の自然の義務」という語で、正義に適った制度に適合するように、選好や嗜好がコントロールされることを前提にしており、制度にとって不適切な利己的エートスの改変可能性が理論的射程に含まれている(337-45)。

 他方、コーエン自身の議論が、もし諸個人の「個人的追求(personal pursuits)」を全く認めないならば、非常に「押し付けがましい(intrusive)」議論になる。この点、コーエンは個人の選択や選好を許容する範囲として、シェフラーの「行為者中心特権」を認めている。だが、もしコーエンが理に適った「行為者中心特権」を認めるならば、制度的平等主義との違いは極めて小さくなるだろう(345-8)。

 コーエンは「道徳的に「厳格主義的」な立場」を採るか、あるいは制度論的平等主義とあまり違わない立場になるかのいずれかの選択に直面する(348)。これに対してコーエンは、理想社会では「魂の革命(revolution in the human soul)」により、個々人は平等主義的コミットメントを内面化していて、個人的追求は自然に最不遇者の最善の利益という観点から動機づけられるはずだ、と言うだろう。だがそもそも、個人的追求と平等主義的正義に適った要求との間で、そんな「幸福な収斂」がありうるのか?

 この実現可能性問題は措いたとしても、コーエンの議論自体に曖昧な点がある。ロールズにおいて、インセンティブに適切に依拠することは、個人的追求と正義の要求を和解させるための手段である。コーエンは追加的報酬が「文字通り(literally)」必要な場合には認められる、としている。だがその基準は曖昧である。たとえば、清貧の詩人を目指す人が、経済企画の卓越した才能をもっていたとする。この人は「文字通り」社会的に有用な職を選択することが不可能なのかどうかは不明である。仮に、その人に社会的に有用な職を選択できるに十分な(トレーニングコスト等を補填する)賃金が提示されたとしよう。その人は、自分の夢を放棄させる選択に対する更なる追加補償がなければ詩人を目指し続けたいと考えるとする。コーエンの図式ではこの人は非難されることになる。このような正義の解釈は、個人の職業と追求の自由に適切に対応していることにはならないし、個人の人生の選択と社会正義の促進との間でバランスをとる議論でもなくなる。(350)

 これに対してコーエンは、個人の特権を認めるので、本人の真の(genuine)ライフスタイルの選好をより社会に貢献する仕事に方向づけるための報酬を「必要」なものとして、それを超える報酬は「利己的な欲深さ(selfish acquisitiveness)」に発しており「不必要」だ、という区別をするかもしれない。しかし、そもそもライフスタイルに基づく真の選択を「欲深さ」から区別する手段など存在しないだろう(351-2)。

 コーエンの議論はさらに「平等主義正義」論の主題、というより広い文脈に置き直して検討することができるだろう。

 「平等主義的正義の基礎とは何か」、という問い〔why問題/平等の価値問題〕に対してありうべき解答は、チャールズ・ベイツの考察を借りて、大きく「派生的」な理由と「直接的」な理由づけに分類できる。そして、このいずれの観点から考察しても、制度的平等主義を捨てる理由にはならないし、個人的振る舞いを正義の射程に含める説得的な理由は出てこない。

 まず、派生的な理由づけをする議論とは、平等が重要な理由を「相互性」の理念に求める議論である。人々が相互に理性的に受容可能な基準が重視される。理性的受容可能性テストは、才能ある者が受け取る報酬について最不遇者が納得するか否かが問題になる。この基準が制度を要求することは明白である。では個人的行為に対する要求も含むのか。たしかに、相互性は制度だけに適用されるわけではなく、スキャンロンが言うように友人間にも存在する。しかし友人などの個人的相互関係のなかで相互性理念が生み出す義務は、不偏的平等主義的な行動を要求するような義務ではない(354-5)。
 相互性理念から見て制度的アプローチは正義の要求に適っていると言えるだろう。

 第二に直接的議論から考えよう。直接的な理由づけの典型は運の平等主義である。本人が選択できない自然の不運はそれ自体正でも不正でもない。それが平等化の対象になるのは、それが個々人の人生と選択に影響を与えるからである。制度は自然の持ち分の不平等が人生のプロスペクトに影響する程度を平等化するために正当化される(356)。では、個人の選択も考慮すべきか? たしかに、個人の選択もその人の置かれた非選択的状況に影響を受けている。これに対する一つの解答が、ドゥオーキンの「自然の運」と「選択運」の区別である(357)。分配原理の重要な区別は、分配は運や環境によって左右されるべきではないが、個々人の選択の結果は反映してよい、という区別である。この点、制度アプローチは運に関わって平等化すべき重要な背景的環境を同定することを可能にすると同時に、個人的選択と責任の領域を保持する。個人の選択に運が影響するとして、しかしそれを無化することは選択感応的コミットメントを犠牲にするという高いコストを払うことになるだろう(358)。制度アプローチは実行可能な(practicable)手段を提供する。
 以上から、平等主義の目的にとって制度への焦点化は必要なだけでなく充分であると言える(359)。これに対して、コーエンの議論はもはや「正義を超えた」議論であり、その社会が実現するならば、正義は冗長な概念になっているだろう。それは素晴らしい社会かもしれないが、平等主義的正義の問題ではもはやないだろう。
 制度アプローチとそれに対する批判は、思想史的には近代の政治哲学と古典古代の哲学との違いに対応する。プラトンにとって個人的善と制度は連続していたが、カントは倫理と正義を区別した。制度論は、この「正義の義務」と「徳(virtue)の義務」というカントの区別を引き継いでいる。「正義の義務」は制度化されうるし強制されうるのに対して、徳の義務は個人的に動機づけられうるのみだとされる(360-1)。もちろん、この区別を受け継ぐ近代政治哲学も、教育などによって政治的徳、市民の徳、協働の徳等を涵養することは認めるし、それを重視する。しかし古代ではより広く、①「私は如何に生きるべきか」という問いと、②「我々は如何に共に生きるべきか」という問いは区別されず、②に対する解答はつねに①に対する解答を伴うとされる。コーエンはこの発想を受け継いでいると思える。近代の考え方は、①への解答は、②に対する解答によって「規制」される、というものである。この立場からみれば、「人が如何に生きるべきか」という問いは、政治哲学ではなく倫理の問題だということになる。(362)