Murphy, Liam B. 1998 "Institutions and the Demands of Justice," Philosophy &

◆ 概要

 

Ⅰ 導入

「制度に対する正義の原理は、特定の状況下での個々人とその行為に適用される諸原理と混同

されるべきではない。これらの二つの原理は、異なる主題に適用され、別々の議論されるべき

である」(Rawls TJ 3, 7, 54-55)

→ このロールズの議論と反対の見解を擁護する。つまり「制度の設計に適用されるような全

ての根本的規範原理は、人々の振る舞い(conduct of people)にもまた適用される」(251)

ロールズの関心は彼だけのものではないし、もちろん適切な場面もある。とりわけ、現在のよ

うに国家がその責任を放棄し、その役割を「ボランティア主義(volunteerism)で置き換えよ

うとしている時代には、意味があるだろう(252)。
 政治的正義と個人倫理を差異化するロールズ流の考え方は、いまでは主流の見解に見えるが

、それは政治哲学における重要な革新である(252-3)。それは功利主義に対置されて展開され

てきた考え方として重要である。
 功利主義は、制度と個人的振る舞い(personal conduct)を同じ基準で評価するが、ロール

ズの議論はそれに対する批判である。ただ、ロールズの二元論に反対するからといって、私は

功利主義をとくに擁護したいわけではない。むしろ、「尤もらしい政治的/道徳的な見解はど

んなものも、根本的なレベルでは、個人の選択にも適用される規範原理をもって制度の正義を

評価すべきだ、という一般的な議論を行いたい」。(253)
 とはいえ、ロールズもまた両者が完全に別物だと信じていたわけではない。正義の理論は道

徳理論の一部だとされているからである。
 ここで、制度設計と個人の振る舞いをめぐる問題を、根本的なレベルで、二つの異なる実践

的原理を必要とする、という主張に関心を絞ろう。以下、この主張を採用する立場を「二元論

」と呼び、これを拒否する立場を「一元論」と呼ぼう。
 一元論は、ロールズによる政治と道徳の区別を拒否するが、それは法と道徳の区別を拒否す

ることではない。
 「一元論が拒否するのは、個人の振る舞いの領域では適用されないような、法制度や他の制

度を評価するための尤もらしい根本的な規範的原理が存在しうる、ということである」(254)

 また、ロールズの言う格差原理のような種類の原理を拒否する(254-5)。
 格差原理が本論にふさわしいのは、以下の議論は「分配的正義」に焦点化するからだ。分配

的正義に焦点化するのは、二元論の賛否論のほとんどがそれに関わっているからであり、また

、二元論をめぐる議論は、分配的正義に関する平等主義理論(egalitarian theory)が直面す

る根本問題の理解を助けると思われるからである。(255)
 本論の狙いは二元論と一元論をそれぞれの意味で評価することにある。
 二元論はすでに、最も精妙な形ではノージックによって批判されてきた。以下では、ノージ

ックによって提起されたいくつかの論点を辿り直すことになるが、本論での一元論擁護論は、

ノージック流の権原論とはまったく無関係である。むしろ、状況が正しくても不正でも人々に

対して理に適った要求を行うような、尤もらしく逞しい平等主義理論を描写することに関心が

ある。
 とはいえ、結論文では、ロールズの議論が二元論であるとしても、その正義に対する制度論

的アプローチ(institutional approach to justice)のなかには我々が採用すべき側面がある

ことも確認する。
 ロールズは、正義を「集合的責任」の問題だとしており、この理解が彼の二元論の背景にあ

る。この理解には同意する。だが、「正義は根本的に制度設計に関わっているということを受

け入れなくても、正義は根本的に集合的義務の問題だということを受け入れることができる」

。(257)

 

Ⅱ 〔道徳的〕分業

二元論を支持する最初の議論は、ロールズが制度的分業と呼ぶものになる。『正義論』では、

基本構造〔という制度〕が正義の主題になるのは、それが最初から人々に甚大な影響を与える

からだ、とされていた。しかし、制度が甚大な影響を与えるとして、この理由づけは制度評価

に特別な基準が必要だという議論を支持しない。それに対して分業論は制度に限定する基準を

与えている。
 ロールズは次のように述べている。

「我々が求めているものは、基本構造と、諸個人や組織に直接的に適用され、特定の取引のな

かで随従されるようなルールとの間の制度的分業である。この分業は確立されうるならば、諸

個人や組織はその目的を基本構造の枠組み内でより効果的に追求することが自由にできるよう

になる。」(257-8)

ここでは、『正義論』よりも狭い形で基本構造が提示されている。たとえば契約法の制度は、

諸個人に直接影響を与えるため――『正義論』では入っていたが――、基本構造の中には入ら

ないということになる。
 この分業はネーゲルの『平等と不偏性』でより展開されている。ネーゲルは「道徳的分業a

moral division of labor」として同じ発想について書いている。それによれば、再分配を達成

するための最良の方法をめぐる問いに我々はたしかに直面するが、この問いにつねに日常的に

個々人が直面すべきだと主張するのは説得力がない。そのうえで、個々人はある程度自由に、

制度的背景のなかで行動できる方がよい、という発想が問題になる。(258)
 ネーゲルの関心は、もし道徳的分業が設定されて、人々は自ら自身の利害関心に関わること

になるとして、彼らはその利害を侵害するような制度的背景を支持し続けると期待できるかど

うかが分からない、という点にある。この問題には次節で答えよう。
 道徳的分業の理念は魅力的だが、ロールズとは違って私は、そのことは格差原理に関する見

解を支持するとは考えない。制度設計に対する特別な注意を払う動機を与えるからである。そ

の制度は二つの徳をもつ。それは単に人々が制度がない時よりもより効果的に正義を確保する

だけでなく、人々が正義を確保するために払うべきコストを最小化する。だが、これのどこに

も、制度設計と個人的振る舞いには別々の規範的原理が適用されるといった考え方を支持する

ものはない。
 ロールズの基本構造の狭い解釈では、その主要な制度は税とその移転である。それは確かに

、受け取り手側の個々人に対しては適用されないと言える。(259)とはいえ支払う側にとって

はそうではない。源泉徴収の場合はそう感じないかもしれないが、徴税は一般に個人にとって

押し付けがましいモノとして経験される。(260)
 結局、基本構造に対する狭い説明は、法システムのどの部分が正義原理によって規制される

べきかを知ることを不可能にする。ロールズは基本構造について『正義論』と違う説明を与え

ていないと考えられる。(261)
 道徳的分業の理念は、正義原理が制度だけに適用されるという見方を支持しない。もちろん

、この理念は我々の制度が最良の仕方で設計されるべき方法についての道筋を提供するが、そ

れはまた別の問題である。一元論者もこの点には同意するからである。
 二元論を退けて分業の理念に同意する正義概念を考えておこう。それは分配的正義を慈善の

原理に基づくものとみなす考え方になるだろう。功利主義も慈善ベースの議論だが、慈善ベー

スの議論が功利主義につねになるわけではない。分配的正義の方が功利主義よりも広い。(262


 分配感応的な慈善の原理にとって魅力的な立場の一つは、最不遇者に大きな道徳的ウェイト

を置く優先主義だろう。それは制度設計を支配する原理と個人の振る舞いを支配する原理に違

いを設けないので、一元論になるだろう。(263)

 

Ⅲ コーエン、インセンティブ、家族

コーエンの二元論批判を見よう。インセンティブ論でコーエンは、なぜ不平等が最不遇者を改

善するのか、そして格差原理によって正当化されるのか、という問いに焦点化している。これ

に対する標準的な想定は、完全に平等な社会では人々はインセンティブを失うだろう、という

ものである。高い賃金を与えられれば、「才能ある(talented)」人々はインセンティブをも

ち、それは万人の利益になるだろう、だから不平等は「必要」なのだ、と。(264)
 コーエンはこの「必要性」が才能ある者の動機に依存しており、その動機は格差原理の理念

を裏切っていると批判する。コーエンの議論を道徳的分業論に当てはめるならば、コーエンは

そうした分業のある社会は不正だ、と言っていることになる。(265)
 コーエンは道徳的分業の理念について深刻な問題を提起している。あるいはその理念の内容

を変えるべき理由を提起している。分業理念は、第一に、人々が、普段の生活では正義の問題

に無関心でいられる状況を描写しており、第二に、彼らは自分たちの自己利益を促進するよう

な仕方で行動できる、というものである。コーエンは「インセンティブ」論文で、正義に適っ

た社会では、多くの人々は自分自身の自己利益に反する選択を為すべきだろうということは不

可避的だ、と言っている。私が提示した分業の理念では、人々はごく少ないケースで自己利益

に反する選択をすべきだということになる。それは正しい体制を支持するためであったり、消

極的義務の狭い範囲に従うためなどである。これは、人々はいつも多かれ少なかれ自己利益に

反する選択をすべきだ、という改訂版の理念と両立可能である。(267) オリジナル版の理念

の中での緊張関係についてのネーゲルの懸念、つまり体制を維持するために、人々はその利益

に完全に反する選択をすることに対する必要性についての懸念からすれば、コーエンの議論が

強いる理念の改訂はそれほど劇的なものではない。
 コーエンのインセンティブ論はロールズの分配的正義論の文脈でのものだが、その帰結はよ

り広い適用可能性をもっていると思える。
 コーエンの議論は二元論に反対の立場を提示している。コーエンは日々の行動や振る舞いに

適用されないとしている点を批判しているが、それは、二元論への強い反論だと言える。最終

的にはコーエンの正義が人々に要求するものについての高要求(demanding)な結論は正しくはないかもしれないが、それは正義論にとってイレレバントなモノではない。(267)
 コーエンの関心はどの制度が基本構造に入るのか、という点にある。オーキンが論じたよう

に、『正義論』では、たとえば家族内のジェンダーに基づく不平等に正義原理は適用されない

。しかしこの家族内のジェンダー不平等は人々の生の展望(prospect)に甚大なインパクトを

もつ。家族は個々人の日々の選択(ordinary day-to-day choices)によって営まれている。と

ころで、ロールズが基本構造に焦点化する主な動機は、人々の生の展望に大きなインパクトがあるという点にある。とすれば、日常的選択に正義は適用されないという考えを放棄すべきだということになるだろう。
 法的強制的制度(legally coesive institutions)は人々の日々の選択によって維持されて

いない、という主張に対する疑問について、私はコーエンに賛同できる。とはいえ、コーエン

はさらに、「全ての」制度が諸個人の選択によって維持されている、とまで述べている。(268

)これは間違いだろう。
 もし全ての制度が根本的には人々がなす選択によって維持されているとしても、そのことは

、ロールズ主義者は制度に適用される原理と個人の選択に適用される原理を区別できない、と

いうことまでは意味しない。
 正義は制度設計についてのものであり、個人の選択には関係がないと言う人は、いかなる制

度が正しいかについて我々に説明する義務を負う、と指摘する点で、コーエンは正しい。しか

し、彼自身の制度の本質についての説明が二元論を否定しているとは思えない。コーエンの議

論をブロックするような制度についての説明は可能だと思える。
 とはいえ、コーエンのインセンティブ論は二元論を捨て去る直接的な理由を提供してはいる

 

Ⅳ 制度と人々の義務

人々の行動が制度にとって必要である。たとえば投票行動。二元論では正義原理は制度の責任

を描写するものだとされる。だが、制度は行為者ではないし、実際には責任をもたない。責任

をもつのは人々である。(270-1)

 

Ⅴ インタラクション

制度は国内的だと理解されている。では国際的正義はどうなるのか。ポッゲは二元論的立場か

らこの問題に取り組んでいる。
ポッゲの国際的正義論は、因果連関を重視している、これは制度的に制御された相互作用が義

務を産み出す、という発想であり、二元論である。(272)
また、ポッゲは不正な制度の強いる不正義と、支援不足を区別している。これは強い道徳的な

二項対立が設定されていることになる。(273)
さらに、国外の経済に巻き込まれておらず、グローバルな制度に影響を受けていないようなコ

ミュニティがあるとして、ポッゲの議論では、その人々は我々に対していかなる正義の主張も

できなくなってしまう。(274)

 

Ⅵ 民主主義的正統性

国家とその正当性を分配的正義に関わる義務として重視する議論としてドゥオーキンの議論が

ある。(275-6)
だが、今や国際関係は無視できないだろう。制度論的立場では、平等主義的コミットメントが

正統な政府への配慮から生ずる、と考えられているようだが、それは正しくないだろう。(277

Ⅶ 制度と非理想的理論(278-283) 省略

Ⅷ 純粋な手続き的正義(284-288) 省略

 

Ⅸ 正義の諸要求(288-)

ロールズの道徳的分業をめぐる議論は明らかに、二元論を介入的ではない、つまり要求的では

ない正義の理論の魅力に結び付けている。私は要求問題に対する分業の重要性には賛同するが

、それを二元論と結び付ける点は否定する。ポッゲもドゥオーキンも、別々の仕方ではあれ、

人々に直接的に要求を行うよりも制度論の方がより理に適っており尤もらしい、と言っている

。(288)
 たしかに、個人に要求するのはあまりに過剰に見えるかもしれない。とはいえ、実は制度論

的二元論にも要求問題は存在する。(289)
 ロールズは少なくともコストが少ないときには自然の義務★がある、と述べている。
 たとえば税制について、百万長者は格差原理に投票する義務があるとして、その人はレッセ

フェールにも投票できる。適切な要求とは何か、という問題からは逃れられない。(290)
 二元論が要求問題にとって助けになると我々が思いたがる理由は何か。それは「正義は集合

的義務だ」という考え方にあるのだろう。とはいえ、それもまた二元論とは関係がない。正義

は集合的義務だという考え方は、一元論とも完全に両立可能である。正義に関する私の責任は

、正義に関するわれわれの集合的責任の一部であるという考え方は、制度を必然的に含意しな

い。(291)

 

★ ロールズの自然の義務(duty)は次の点で「責務(obligation)」と区別されている。

 

 1 約束や同意を典型とするような「行為」とは無関係に存在しうる。

 2 ある制度に関連する規則や社会的実践によって規定されない。

 3 特定の集団内の人や制度的に関係する人に限定されない。

 

他方、これら三つの特徴を備えた責任を、ロールズは責務(obligation)と呼ぶ。