Baynes, Kenneth 2006 "Ethos and Institution: On the Site of Distributive Justice," Journal of Social Philosophy, 37-2 (Summer 2006): 182-196

「コーエンによればロールズのリベラルな理論は、正しい社会の「制度」に焦点化し過ぎており、その制度の中での諸個人の選択や動機にほとんど関心を持っていない。」(182)

 

「コーエンの主張は、ロールズの制度に対する主要な関心――とくに格差原理を実行するための主要な手段として――は、市場における利己的な最大化の利害関心を放任している、というものである。……しかし、初期の共同体主義によるロールズ批判を部分的に共有してはいるが、コーエンの議論はそれとは異なり、リベラルな理論に内的なあるいは内在的な批判と彼が考えるモノを提示している」(182)

 

「ただコーエンのロールズ解釈は、最終的には弱点があると私は思うし、以下でいくつかの具体的な反論を展開するつもりである。とはいえ、彼のロールズ理論に関する議論は、ロールズによる正義の説明のなかで、とくに社会的エートスつまり諸個人の動機や態度がその実行にあたって果たす役割に関して、格差原理に関する解釈に含まれる重要な曖昧さを指摘している。」(183)

 

「ロールズの正義の説明におけるエートスと制度との緊張関係に関するコーエンの指摘は、公的なものと私的なもの――あるいはより一般的に言えば、リベラルな原理と文化やアイデンティティの問題――との関係性について問題を提起しており、それは、たとえばハーバーマスのような他の制度に焦点化する民主主義理論にとっても重要である。」(183)

 

「以下、まずコーエンの批判を概観し、ロールズ主義がそれに応答する方法を示す。その上で、コーエンの批判がロールズ理論のなかで対処できるとしても、それは理論を再善の仕方で概念化するにあたって採用されるべき重要な選択を明らかにしており、さらなる探求を必要とするような難問を提起していることを示唆する。それは、とくに公的と私的という伝統的リベラルの区別をある種の疑いを持って扱うべき、民主主義的平等に関する複雑な考え方を提起している。」(183)

 

「コーエンの批判の第一の論点は、不平等を生み出すインセンティブの導入を認めることについてのロールズの説明が非常にあいまいだという点にある。インセンティブはトレーニングコストのためのものかもしれないし、ある種の仕事に伴う大きなリスクのために導入されるかもしれないし、また特にきつい仕事を引き受けるために――つまり総じてある種の仕事に伴う「特別な負担(special burden)」と彼が呼ぶものをカバーするために――導入されるかもしれない。だがそれらは単に生産的な能力を持つ人(the productively talented)が、その仕事の「特別な負担」に見合ったコストより以上を受け取らなければ働きたくない、という理由でも導入されうる。そしてコーエンは、後者はインセンティブ導入にとって「標準的」なあるいはお馴染みのケースだと述べる。」(184)

 

 他方、コーエンは、ロールズの議論のより「厳格」な解釈では、生産者達の選好や選択は、最不遇者の状況を改善させるために厳密な意味で必要なコストの外部にあるため、考慮されないはずだと言う。そして、先の「標準的」なケースで受け容れられるようなインセンティブは許容されないと言う。
 そしてコーエンは、この解釈だけがロールズの平等主義に整合的だ、と論ずる。コーエンの論拠は、ロールズ『正義論』のなかで彼が「秩序だった社会」を支持している文章の多くで、社会制度の内部の諸個人の動機や行動に正義原理が適用される、と述べているという点にある。(184)

「コーエンは次のように問う。「なぜ我々は、強制的基本構造についてそんなに固執しなければならないのか? その主な理由、つまりそれが人々の生に与えるインパクトという理由が、インフォーマルな構造や諸個人の選択パターンについて配慮する理由にもなるのに。」」(185)

 

ロールズ擁護の試み(本文には節なし)

 

「コーエンによれば、ロールズはしばしば基本構造を法的強制的制度、つまりその実在と作動が強制的な法のメカニズムに従っている制度という狭い意味で描写している。だが、ロールズはまた、基本構造に関するより広い読解も行っている。」(186)

それによれば基本構造とは人々の生の展望に多大な影響を与えるモノという規定がされる。とすれば家族もその中に入るだろう。この観点からすれば、法的強制的制度に基本構造を限定するという「厳密な解釈」は斥けられるはずだ、とコーエンは言う。(186)

 このコーエンによるロールズに対する「内在的」な批判に応答するにあたり、いくつかの別々の論点を取り上げたい。第一に、格差原理についてコーエンが論ずるほど、「緩い解釈」と「厳密な解釈」との間のギャップは大きくないこと、第二に、コーエンに反して、厳密な解釈はロールズのテキストによって支持されないことを指摘する。とはいえ、ロールズの平等主義的コミットメントは問題になる。この点について最後に、平等主義的読解を「厳密な解釈」に訴えることなく維持する可能性を示唆する。(186-7)

まず、コーエンの議論は、サミュエル・シェフラーの言う「行為主体(相関的)特権(agent-relative prerogatives)」がなければ、道徳的厳格主義(moral rigorism)になる。行為主体特権とは、正義の要求と自己利益への関心が対立するときにも、個人はその自己利益を追求する理由を持つ場合もあるということである。そしてコーエンは、もし職に留まった方が最不遇者の利益になるとしても、自己利益に基づいて職を辞することも許容されると述べている。
だが、もしこれを受け入れるならば、それは「不平等を生み出す行為主体特権」を認めることになるのではないか。(187)
 様々な理由での行為主体特権の発動がありうる。そのなかに明確な線を引くことができないならば、コーエンがロールズに帰している「緩い解釈」と「厳密な解釈」との間のギャップは縮まるだろう。(187-8)
 第二にコーエンは、自己利益的な目的の合理的追求の程度は、最不遇者がどれくらい悪い状態にあるかに依存すると述べている。とすれば、それほど悪い状態にない場合、自己利益的目的追求はかなりの幅で認められることになるだろう。これは、先のギャップを埋める道がもう一つあるということになる。(188)
 最後に、ロールズ自身がテキストのなかで「緩い解釈」によって認められるとコーエンが考えるモノを否定しようとしている。
 とするとどこまでロールズの議論とコーエンの議論が違うのかが問題になるだろう。(189)
 たしかに、コーエンが指摘するように、ロールズは基本構造の扱いについてつねに明確だったわけではない。とはいえ、ロールズは、基本構造に属する制度の、従って正義原理が適用される対象の同定基準を提示している。それは二つある。第一に、規範によって支配される活動のすべてが制度的なものであるわけではない、ということであり、第二に、制度は法的強制力の対象に限定される必要はないということである。重要なことは、制度的規範は、それらについての知識が相互に知られており、人々はその行動をその規範に一致させることができる、という意味で公的なものだという点にある。(189)

 コーエンは基本構造が法的強制的制度に制限されないということを指摘した点では正しいが、ロールズが、人々がその制度内で行動する際の「戦略と基準」と呼ぶものにまで、正義原理が直接適用される必要はない。(190)

 かくして、コーエンの「厳密な解釈」に基づくロールズ批判は成功していない。
 もちろん、だからといって、ロールズは制度内の個々人の動機や振る舞いに無関心だということではない。公正の原理や自然の義務、つまり危害を加えないことや、必要な時に援助すること、正しい制度を支持することなどはあるとされている。とはいえ、正しい社会の制度をデザインするための要請と諸個人の振る舞いに適用される原理との間には違いがある。

 では、所得の大きな格差に対するロールズの批判が「厳密な解釈」に対するアピールとして説明できないとして、それはどう説明されるのか。それについては、制度は諸個人の動機と行動を形づくる重要な役割を持つ、という説明がありうる。ロールズの立場はロバート・グッディンが言う「新制度主義」に当てはまる。(190)
 ロールズの立場は制度が諸個人の動機や選好、振る舞いを形成する、というものである。他方、コーエンは、利己的な動機は競争市場の中で生じやすいということを重視するから、このロールズの議論を否定するだろう。では、このコーエンの見立ては、ロールズの「財産所有民主主義」のなかでも妥当するだろうか。この「財産所有民主主義」と「福祉国家資本主義」の違いは、しばしばロールズ批判者の中でも看過されている。前者は単に最低限の厚生を保障するだけでなく、富と所有権の広範な分散を目的にしている。(191)
 とはいえコーエンはこれも批判するかもしれない。正義原理は単に行為を制約するのではなく、我々の行為すべての動機を導く(あるいはコントロールする)べきだ、と。だが、そうだとして、このような一元論的立場は否定されるだろう。(191)
 また、ロールズの議論は、「民主主義的平等」と彼が呼ぶものに焦点があると考えられる。格差原理は社会経済的な不平等の調整にまで拡張されると言われている。従って格差原理を単に経済制度だけに適用されるものだと考えることも、格差原理だけをロールズの平等の構想として考えることも誤解である。民主主義的平等は、単に格差原理だけで保障されるわけではなく、格差原理、公正な機会の平等、基本的諸自由の平等という三つの正義の原理の組み合わせいによって達成される。この複合的な平等の構想を理解しないことは、ロールズを誤解するだけでなく、平等のあまり魅力的ではない構想に結びつくことになる。(192)それはコーエン自身も関与している議論、いわゆる「運の平等主義」をめぐる議論である。この議論は、自然の不運に補償しようという発想に駆動されている。だが、それは莫大な情報的負担をもたらすし、他の平等原理と対立する。たとえば、民主主義的平等の目標と対立する。それは、何らかの真価(deserve)に基づいて人々が得られるものを保障するのではなく、各人に市民として平等な地位を保障し、その地位が含むリスペクトとエンタイトルメントを保障することである。(193)
 また、この「民主主義的平等」は伝統的なリベラルとは異なる。ロールズは自らの議論は「権利ベース」の議論ではなく「理念」あるいは「構想ベース」の議論であると述べている。ハーバーマスへの応答では、公的自律と私的自律、あるいはバンジャマン・コンスタンが「古代人の自由」と「近代人の自由」と呼ぶものの等根源性(co-originality)をロールズは主張している。(193)
 ハーバーマスは『事実性と妥当性』で、民主主義の原理(公的自律)もリベラルな権利(私的自律)の図式も、いずれも原初的なものとみなすべきではないと論じている。ハーバーマスの説明では、この両者は、ある種の(討議的)自由の構想と法に関する近代の構想と結合した形で生じてくる。だが、ロールズはハーバーマスへの応答の中で、古代人と近代人の自由は等根源的であり、等しい重みを持つと述べている。(194)


 この二つの自由のセットのルーツについての説明は広い含意を持つが、今後の探求課題である。ただ、ここでたとえばフェミニズムのスローガン「個人的なものは政治的」に立ち返って考えるなら次のように言える。コーエンは「個人的」なものを正義の範囲外に置くようなリベラリズムを支持していると批判していた。だが、ロールズ自身の議論では、たとえば家族という制度も市場も、正義の縛りを越えたプライベートな領域に留まるものとはされていない。正義は、家族という制度のデザインとその作動に対する別の改善を追求する必要性を認めている。民主主義的平等はそれ自体、何がプライベートで何がパブリックかを定義するのに役立つし、社会正義の直接的な場として適切なものとそうでないものを定義するのに役立つ。
 コーエンは、ロールズの正義の説明の中のエートスと制度の関係性が無視されていたことを重視している。私自身は、コーエンによる格差原理の「厳格な解釈」を支持する理由をほとんど見出せないが、次のことは疑いなく正しい。つまり、正しい民主的な社会の制度がうまく機能するために必要な公民的徳――礼儀正しさ(civility)、涵養、信頼、相互尊重を含む――には、より多く注意が払われうるしまた、そうすべきだということである。(194)