Young, I. M. 2006 “Taking the Basic Structure Seriously,” Perspectives on Politics (2006), 4: 91-97

主題……ロールズの「基本構造」の範囲と分配パラダイムの射程

 

「資源、機会、所得の分配パターンは正義にとって非常に重要であるが、それらに理論的に焦点化することは、以下の二つの仕方で、構造的なプロセスのもつ重要な側面に対する関心を逸らせてしまう傾向をもつ。第一に、分配に対する焦点化は、分配が生ずるプロセスにあまり注意を払わない。第二に、利益と負担の分配に対する焦点化は、分配パラダイムのもとではうまく扱えないような構造的なプロセスの重要な側面を曖昧化する。」(91)

 非分配的な問題を三つに分けて論ずる。①社会的分業に関する問題、意思決定権力に関わる論点、人々の振る舞いと態度をノーマライズするプロセスである。
分配に対する関心が、他の関心に置きかえられるべきだと考えているわけではない。そうではなく、社会正義の主題は分配よりも広いということを主張する。

 第一点は分配パターンが生み出されるプロセスの重要性である。マルクスが述べたように、生産物の分配を条件づける生産諸関係に着目する必要がある。我々が財や所得や仕事、コストの公正な分配を問題にする際、しばしば、所有権や権威、意思決定権力、職務の割当て、法的ないし社会的権威、日常の慣習等の構造的諸関係の既存のセットを前提にしている。マルクスだけでなく、ノージックもこの点を問題にした論者である。ノージックは分配パターンよりもプロセスを重視したからである。彼は自発的同意だけを単一の基準とした点で問題があったしそれはロールズも指摘した点である。ただ、いずれにしても分配パターンを産み出すプロセスが、正義の判断を行うに当たって、パターンそのものと同じく重要だということは言える。基本構造にこうした構造的プロセスを入れることは、より広い考察を必要とする。大きく三つある。

 

経済的正義と分業

 

 ロールズは、社会的分業は基本構造の一般的側面だと考えているし、実際、それは重要である。ところで、社会的分業が正義の問題を提起する仕方についての解釈は少なくとも二つある。一つは、形式的解釈であり、もう一つはそうではない。この第二の解釈は、制度的組織と社会構造をめぐる正義に対するより基本的な問いを提起すると考えられる。(92)
 まず、第一の理解は、どんな種類の人々がどんな仕事に就いているかを問題にする。たとえば、単純で指示に従う仕事に有色人種の人々が多く就いており、有色人種の人々が高給の専門職の地位にほとんど就いていない場合、有色人種の人々は不当にある種の職を制限されているのではないか、という問いが生ずる。ロールズはこの問題に、公正な機会の平等に焦点化することで対処している。地位の配分手続きは、人種やジェンダー、出自によって差別されるべきではないし、適切な教育システムが万人に対して、自分の望むスキルや資格を身に着けることを可能にすべきだ、と。
 私はこの発想に同意する。しかし、この発想は、分業における正義をむしろ表面的なレベルに位置づけることになる。どんな人々がどんな職に就くかという問いの前に、職業そのものが定義されるべき仕方をめぐる問いがある。これは第二の解釈である。職業的区分の構造、そのなかでの職務の定義、そして生産と分配等の中で人々が占める異なった地位の間の関係性を道徳的に評価する方法が問題になる。職業のヒエラルキー(ピラミッド)があることは正当化どうか、と。
 
 ジェンダー正義を参照して考えよう。世界のほとんどの社会で、女性は子供等、家族内で依存する人のケアに専心する者と考えられ、男性が家族に対する主要な所得獲得者とされている。フェミニストはこれにより、女性の他の能力を発展させる機会が制約され、公的承認を獲得する機会も制約され、またしばしば貧困に陥らせるとして批判してきた。オーキンとキテイは、家族内でのジェンダー分業にロールズが取り組めていないことを批判してきた。これに対してロールズは、女性の働きに補償する必要がある、として応答している。これは分配タームでのジェンダー分業の概念化である。有償の雇用と無償の家族労働との間の分業があるとき、女性と男性は家族労働を平等に分割すべきであると言うか、あるいは無償労働を担う人は稼ぐパートナーに経済的に保障されるべきである、と言われる。だが、この解釈は、私的な家庭内ケアワークと公的な賃金労働との間の構造的分割をめぐる問題を放置する。このアプローチは、雇用者による労働時間や働き方をめぐる期待、性による地位の隔離、ジェンダーステレオタイプの影響等、より根本的な性別分業の構造的問題には届かない。それにどう対処するかは複雑な問題だが、重要だ。

 別の例を考えよう。社会主義政治は歴史的に、ある種の仕事を比較的単純でルーチンで従属的なものとして、他方、別の仕事を広い裁量性と意思決定責任をもつ者とする近代の分業を問うてきた。この立場は、この構造そのものが正義の問題であると考えられるということを示唆している。それはアンスキルドとスキルドの間、単純労働と専門職の間の分業の正義に対する議論がある。平等な機会の分配という理解では、この問題は生じない。(93)

意思決定における正義

 少数者が意思決定権力を占有している状態がある。たとえば、資本家や大企業の経営者等は、多くの人の協働によって生み出された資本の投資に対して多大な権力をもっている。
 それだけでなく、全ての社会制度は、目的と手段を決定する手続きを含んでおり、通常、特定の地位を占める人が多くの決定を下している。しばしば少数の人々の決定が多くの制度に参加する人々や制度外の人々に影響を与える。
これは分業にも関わる。より民主的な組織とはどんなものか、という問題がある。イアン・シャピロが言うように、正義は国家や政府以外の制度にとっての民主的意思決定についてある「想定」を要求する。ロールズは他の多くの論者と同じく、この点について公的制度と私的制度を区別し、政治的自由は前者にのみ適用されるとしている。それに影響するような経済的不平等は税や相続制度によって是正されるべきだと論じている。
 これは良い立場だが、依然として、非国家的な制度における意思決定権力の問題が残る。『公正としての正義――再説』でロールズが導入する財産所有民主主義も、この問題に対処するわけではない。

 

規範性(normativity)

 

 最後に、分配パラダイムによって把捉されないような第三のカテゴリー、「文化」がある。相互行為の慣習や日々の意味付け、マスメディア等での表象等(94)が、ある人々あるいは振る舞いを他のモノよりもより傷つきやすくしていることがある。劣位化とスティグマ化等がある人々に不利益を与え、別の人に利益を与える構造的プロセスに貢献している。
 ただ、「文化」という語も「承認」という語も、――たとえば「承認」には、集団的認知や集団の自治独立、またはより排除やスティグマに関わる意味など――様々な含意があり、曖昧なので使わない。むしろ「規範化(normalization)」という語を使いたい。
 それは単に個人的に非難されるべき行為の被害者と言うだけではなく、システマティックな不正義を被っていることを表現する。正常と逸脱を区別するような制度、言説そして実践に関わる不正義が問題になる。規範化のプロセスは分配そのものとは異なる。
 障害をもつ人々の状況が、最も深刻にこの問題を示している。「正義に関する理論家のほとんどは障害を分配パラダイムの下で扱う。」 障害をもつことは、他の人よりも所得や権力を効果的に得られないために保障に値する人であり、その不利益を補償を受け取るべき「ハンディキャップ」を負った人々だとみなされている。
 障害をもつ人々の権利擁護者たちは、こうした、障害は「自然」の不運であり能力の欠如というカテゴリーだという想定を問題化してきた。ある人が「障害」をもつかどうかは、その人の属性や能力よりも、インフラ、ルール、相互行為の予期等の程度に依存する。
 そしてそれは、障害者に限らず、女性や異性愛規範から逸脱する人々、人種的に異なる人々にも言える。その場は、職場や学校にも及ぶ。
 これらの差別は、今では、明示的な偏見や明らかな排除的な社会政策から生ずるのではなく、むしろ、制度的ルールや社会的行為のインフラ、日々の慣習に埋め込まれた、広範だが相対的に気づかれない想定から生ずる。(96)