その(2)

レイプと避妊の失敗の線引きとその曖昧さ

 

 ほとんどすべての議論が、レイプによる望まない妊娠のケースでは中絶は許容される、と論じている。もちろん、その根拠自体が問われるべきであり、レイプの結果の妊娠についても中絶は禁止だ、という立場もあることはある。とはいえ、以下ではこの――多くの人に共有されていると思われる――直観を前提にする。

 

 その上で問題は、「レイプ/それ以外」という線引きの妥当性、になるだろう。

 レイプによる望まない妊娠のケースでは中絶が許容されて当然だ、という直観の前提には、妊娠をもたらした行為に対する女性の選択決定の契機の有無という基準がある(それ以外にはない)。このような自己決定-自己責任の論理、あるいは責任感応的な考え方には、たしかに説得力がある。

 ところで、妊娠が起こる原因は基本的に性的行為であり、そこには少なくとも二人の当事者がいる。レイプのケースが示すのは、妊娠中絶に対する当事者の間での責任の重さは、妊娠に結びつく行為に関する選択・行為主体性の大きさに応じて変わる、ということだろう。とすれば、いわゆる「通常の性行為」のなかで、妊娠の原因となる行為に関する選択決定・行為の主体性・イニシアティブが男女のどちらに多くあったか、についても検討する必要がある。

 沼崎一郎、宮地尚子、森岡正博らの考察が示すように、そして江口聡がその重要性を指摘しているように、性的行為において、妊娠に至る具体的な行為のイニシアティブがもっぱら男性にあった場合、望まない妊娠という結果に対する女性側の責任は、レイプのケースと類比的に考えられる。中絶に対する責任とは、「胎児に対する責任」を放棄することに対する責任だと言えるとして、その責任は(他の責任についても一般に言えるように)オールオアナッシングではなく「重さ」があるだろう。責任の重さに応じて、法的処罰に値するほどのものか、道徳的非難に留まるのか、あるいは非難も不適切なのか等々の評価も変わってくるだろう。そして、男性/女性への責任の配分率は、胎児を発生させる可能性(危険性)のある具体的な行為に対する主導権の割合に応じて変わる。

 この点について、たとえば宮地は「孕ませる性と孕む性――避妊責任の実体化の可能性を探る」(『現代文明学研究』1号、1998年)のなかで、女性が避妊を望んでいるにもかかわらず、それを男性が拒否した結果として望まない妊娠が起こったケースについて、「中絶が胎児への暴力、殺人であるとするなら、堕胎罪も男性が問われるべきものとなる」(24)と指摘している。たしかに、このケースは、「性的自己決定権」という語を使うならば、性的行為の内容に対する女性の決定権を男性が侵害しているので、レイプにきわめて近く、したがってこのケースに限定するならば、この宮地の指摘はおおむね妥当だと言えるだろう。

 この議論を受けて、さらに森岡は「膣内射精性暴力論の射程――男性学から見たセクシュアリティと倫理」(『倫理学研究』38号、2008年)において、女性が事後的に妊娠を「望まない」と思えば、仮に性行為の時点では妊娠出産に双方が完全に同意していたとしても、事前の性行為における男性の「射精」という行為について、遡及的に「性暴力」だと言える可能性が生ずる、と述べている。さすがに森岡の議論は極端であるが、しかしこうした考察はやはり重要である。 もちろん、江口が「森岡正博「膣内射精暴力論の射程」へのコメント――問題は性的同意では?」で指摘するように、性的行為における「同意」については、事態はより複雑かつ曖昧な側面をもつことが予測される。とはいえこれも江口が言うように、この論点は性的行為一般を考える上でも、「中絶」問題を考える上でもやはり不可避だろう。

 

 ここでも仮想的な事例を媒介にしよう。

 キャッチボールをしていて、一方がボールを投げ、他方がそれを取り損ねたとする。そのボールが運悪く通行人に当たり、その人が怪我をしたとする。その怪我の状況等は(1)で見たとおりだとする。この場合、もちろん両者に責任はあるが、より細かく見て、どちらの責任が「重い」と言えるか。ボールのスピードや弾道が簡単にキャッチできるようなものだったかどうかにもよるが、やはり、投げた者の責任の方が重いと考えるのがふつうではないか。これが示唆するのは、セックスの際に妊娠に結びつく可能性のある具体的な行為について、その主導権を男女のいずれがもっていたかによって、胎児に対する責任の重さは変わってくるということである。

 まず、射精という「行為」――それが主体的な「行為」だと言えない場合も皆無ではないかもしれないが――の主体は男性であり、このキャッチボール事例ではボールを投げた側に該当する。

 

 また、性的行為の内容に対するイニシアティブについても――女性を「弱者化」するという恐れはあるとしても――、微細にみれば、いくつかの考察が可能であり、また必要だろう。

 ABは「キャッチボールをしよう」という点で合意している。しかし、子どもが砂場で遊んでいる公園でしかキャッチボールができないとする。Bは「硬球」でキャッチボールをしたいと思っている。Aは、その場所では硬球のキャッチボールは危険だから、「軟球」でした方がよい、と思う(だが、明示的に意思を表示しない)。他方、Bは「大丈夫、安全だ」と思っており、そのように行動する。Aは、危険を感じつつも、Bに迎合して硬球でのキャッチボールをする。そして、Bが投げたボールが子どもに当たるとする。この場合、Aの責任はさらに重くなると言えるかどうか。Aが明示的に意思を表示していた場合にはBの責任は重くなるのではないか。また、何らかの理由で、Aはその場所での「硬球のキャッチボール」を忌避するだろうということが、Bに合理的に理解されうる状況だった場合はどうか。たとえば、そこで遊んでいたのが、Aの姉妹兄弟あるいは子どもだった、といった場合。

 この例は、もちろん、いくつかの重要な点で性的行為と望まない妊娠の例とは異なる。妊娠の場合は、A自身の身体に対する影響もあるが、上の例ではそれがない等。とはいえ、この事例は、性的行為の内容および避妊の方法に関する事前の意思決定のイニシアティブを考える上では、一定の意義があるだろう。

 

 もちろん、性的行為における妊娠可能性のある行為に対する男女の責任の配分――「胎児に対する責任」の配分――を考える上では、Aが「硬球」を望まない理由、つまり女性が妊娠に結びつきうる行為を望まない理由と、Bが「硬球」を好む理由、つまり男性が性器セックスを好む理由との関係性についての一般的な評価が必要になるだろう。

 まず、①妊娠を望んでいない性的行為において、女性が確実な避妊方法を望んでいるということは常識である。また、②女性は、男性の射精という行為自体について危険を感じているかもしれない。さらに、③ラディカル・フェミニズムの一部の論者が指摘するように、そもそも女性の多くは「性器セックス(膣ペニス性交)」自体を基本的に望んでいない、とまで言えるかもしれない。

 他方、男性はたとえば「コンドームを付けているのだから大丈夫」等と考えており、性的行為をもっぱら性器セックス(上の事例では「硬球のキャッチボール」)としてイメージしている。そして、実際には女性も性器セックスを明示的には拒否しなかったとする。しかし、避妊が失敗し妊娠してしまう。①だけでなく②の願望も女性に帰すことが合理的だとするならば、胎児に対する男性の責任は、女性のそれに比してさらに重くなると言えるだろうか。あるいはそうではなく、女性も明示的に拒否しなかったのだからやはり等しい責任がある、と言えるだろうか。③を加えるとどうか。また、女性の性的行為に対する意思決定が、「社会的」に――あるいは家父長制的に?――男性によってコントロールされている、という前提をとるならばどうか。

 いずれにしろ問題は、意思決定の具体的な内容と、その背景にある価値観等も含めた諸要素をどのように考え、またそれにどの程度の重み付けをするか、になるだろう。

 もちろん、「女性たちは自分の性的生活をほとんどコントロールすることができずにいる」(シャーウィン「フェミニスト倫理学のレンズを通して見た妊娠中絶」『妊娠中絶の生命倫理』254頁)といった描像を固定化したり、「男性が主体/女性は客体」といった通俗的な(日本のAVのような)セックスのイメージを強調し過ぎることは、よくないだろう。 だが、しかし逆に、性的行為の内容や、避妊方法の選択に関する男女間の力関係を考慮しない中絶論議もまた、素朴すぎるだろう(従来の生命倫理学の議論の多くは、この意味で素朴である)。

 

 少なくとも、性的行為の具体的な内容をめぐる考察は、中絶問題を考える上で、レイプと「避妊の失敗」のケースの線引きの間の曖昧さに留意が必要であることを示していると言える。そしてそれは、中絶をめぐる議論全体の方向性(あるいは曖昧な言い方ではあるが議論の「トーン」)を左右するだろう。

 これは、トムソン事例の改変という方向性ではなく、トムソンの議論が「レイプ」に限定されているとして、実際の性行為に関するレイプ/それ以外という線引きを曖昧化する方向性、いわば、「性的行為」に対する決定・選択の契機に関するミクロ権力分析による中絶擁護論の可能性、とでも言えるかもしれない。

   ※ 20110114 未完(20110114)。

 

 20110117追記 性的行為の内容に対する男女の選好について。生殖に結びつく行為に対する男女のイニシアティブに関する評価についていくつか論点があるだろう。たとえば、仮に、ラディカル・フェミニズムが言うように、女性の「本来的」な欲望は性器セックスにはないと言えるとして、その上で、しかし性器セックス中心主義的な(男性主導的な)文化に「適応」していると言えるとして、そのことを、妊娠中絶の道徳的評価の文脈でどう考えるべきか。