障害の社会モデル(1) 構築主義的な考え方

■ 「インペアメント」の構築主義的解釈――星加良司『障害とは何か』(2007)

 

① 星加はまず、「障害=ディスアビリティ」は(特に障害者が被る)不利益であるとする。ICIDH、DPI(障害者インターナショナル)、UPIAS(反隔離身体障害者同盟)の用法でも、「ディスアビリティを不利益として捉える認識は概ね共有されている」(45)からである。


② そのうえで、社会モデルと個人モデルの違いは、「その原因の帰属先と働きかけの焦点」(43)や「解消努力を誰に要求するのかという問題」(43)にあると指摘する。
 この点、星加は、「disability」という語を「できないこと」や「できなさ」に限定するべきであるとする。星加によれば、「できないこと」などに対する「外的な要因である「障壁」をディスアビリティに含める用語法は混乱を招く」。「「障壁」のようにディスアビリティの原因となる外的要因については、「できなくさせるもの(無力化するもの)」を意味するディスエイブルメント」があるからである(45)。


③ とはいえ、単なる「不利益」だけでは意味がない。誰でも何らかの不利益は被っているからである。

 星加は「障害=ディスアビリティ」とは、「障害者」が被る不利益である。

 とすると、「障害者」(の不利益としてのディスアビリティ)を、不利益を被る人たち一般から区別する基準が必要になる。それは何か?

 

④ 通常「インペアメント」つまり身体的機能損傷が、障害者とそれ以外を分けると理解されている。たとえば視覚能力の損傷、歩行機能の損傷など。

 それに対して星加は、「インペアメント」は「ディスアビリティ」から遡及的に特定されるものだという構築主義的な考え方を採用している。つまり、「インペアメント理解そのものが、社会的な文脈の中で生み出され、流通しているものだということは、社会モデル支持者の基礎的な共通理解」(星加 2013: 28)である。

 星加によれば、「社会において要求される価値との関連でディスアビリティが生じ、それを個人に帰責するためにある種の機能的特質に対して否定的な価値付けがなされたものがインペアメント」(星加 2007: 108)である。つまり、「インペアメントはディスアビリティに先行して存在しているのではない」。そして、「ディスアビリティをインペアメントとの関連で同定することには無理がある」(108)とされている。


⑤ とすると、不利益一般(ディスアドバンテージ)とディスアビリティを弁別する基準、「障害者の経験する不利益を他の不利益から差別化したり内部における質的な差異を把握したりするための基準」(115)はなにか、という問題は残る。

 星加の答え―― 「社会生活全般にわたって、また人生の多くの期間を通じて様々な不利益を集中的に経験することそのものが、深刻なディスアビリティとして経験されているのではないか」(194)。「〈ディスアビリティとは、不利益が特有な形式で個人の集中的に経験される現象である〉」(195)

 

⑥ 星加は、障害(ディスアビリティ)の「社会モデル」の意義とは、「不利益を集中させるメカニズムこそがすぐれて「社会的」な//のであり、それはもはや「個体的条件」を媒介することなく作動する」(196-7)という認識あるいは指摘にあるとする。

 

「確かに不利益の「複合化」も「複層化」も、障害者に対して固有に生起する現象ではない。しかし、生産能力を要求する「社会的価値」を基底に諸々の「社会的価値」のリストが編成されていること、また主に機能的な観点からそうした諸価値が階層的に連結されていることを踏まえれば、障害者に対して不利益が集中する傾向が強いということは言えよう」(202)

 

■ まとめとコメント

 

・ディスアビリティ=不利益の一種=不利益の集中

・インペアメント=「ディスアビリティ〔不利益の集中〕」を「個人に帰責するためにある種の機能的特質に対して否定的な価値付けがなされたもの」。

 

ディスアビリティ(障害)とは「不利益の集中」であり、インペアメントとは「機能的特質」である。「機能的特質」とは身体的特質でよいだろう。これはいずれも、非常に広いように見える。

 この定義からすると――「不利益の集中」と「機能的特質」そして「否定的評価」をどう解釈するかによるが――、たとえば「女性」は「障害者」になるのではないか。そして「女性」という性別はインペアメントになるのではないか。フェミニズムが指摘するように、「女性性」という特質は、様々な領域で不利益をもたらし、またそれが不利益の帰責根拠として――「女なのだから仕方がない」等――否定的に価値づけされているからである。また、人種差別があった時代の「有色人種」や民族・外国人差別のある現在の日本での在日外国人も「障害者」になりうるように思われる。

 

 他方、これも「不利益の集中」等の解釈次第だが、たとえば不妊や微細な容姿の差異(低身長や禿げ)等がもたらす不利益は「ディスアビリティ」であるかどうか、したがってそれらの特性は「インペアメント」なのかどうかも問題になるだろう。

 

 いずれにしても、「不利益の集中」と「機能的特質」そして「否定的評価」をどう解釈するかが重要になる。

 仮に、現在「障害者」と一般に思われている人々が被る不利益を、他の不利益よりも特に優先するという目的があったとして、しかし、星加の議論ではその目的の達成は事前には保証されない。どの不利益が「ディスアビリティ」になり、したがって誰が「障害者」になるのかは、「不利益の集中」等の解釈と評価次第で決まるからである。(もちろん以上の点は別に理論的な欠陥であるとは言えない。)